「私は生まれながらの将軍である。誰にも気がねせずに政治を行う」

とは江戸幕府3代将軍「徳川家光」のセリフです。

このセリフの通り、参勤交代を義務付けたり鎖国を完成させるなど辣腕をふるい、江戸幕府の体制を盤石に

でもその辣腕の陰には、幼いころからの母親へのコンプレックスが見え隠れします。

この記事では家光の2人の弟との関係に焦点をあて、家光の心の闇にせまります!

母に愛されなかったコンプレックス?家光が2人の弟に抱いた憎しみと愛情

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家光を疎んだ母「お江」原因は信長と光秀の因縁?

徳川家光は2代目将軍・秀忠と正室お江との間に、二男として生まれました。

家光は幼いころから病弱でおっとりしていたといいます。

そんな家光を、母のお江は疎ましく接していました。

家光の性格が、お江には合わなかったのかもしれません。

しかし、家光の乳母をつとめていた春日局の存在も、影響したのかもしれません。

母のお江は織田信長の姪

春日局は明智光秀の家臣の娘でした。

つまりお江にとって春日局は敵のようなもの。

そんな春日局が育てた家光を疎ましく思うのは、戦国の世では当然のことなのかもしれません。

父母に大切にされた弟・忠長への恨み

一方でお江は、家光の弟・忠長を大切に育てていました。

父の秀忠とともに、

家光の代わりに「忠長を将軍に」

と考えていたようです。

ただしそれを知った春日局の陳情により、忠長が将軍になることはなかったのですが・・

母にないがしろにされた家光の恨みは、大変大きなものだったようです。

家光が将軍となり父・秀忠と母・お江が亡くなると、忠長は謀反の疑いで家光に自害させられました。

不遇の弟・保科正之に差し伸べた愛情

実の弟を自害に追い込んだ家光。

その一方で、腹違いの弟の保科正之へは別人のように愛情を注いだといいます。

保科正之は父・秀忠が女中に産ませた子です。

武田家の家臣である保科家に預けられ、家光とはしばらく面識がありませんでした。

しかし家光はこの正之を気に入り、信濃の小大名だった正之を会津藩主に取り立てました。

まるで正之に、父と母の愛を受けられなかった自分自身を投影したように感じられます。

実際に功績の高い徳川家光

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このように「母に愛されなかった」コンプレックスを抱えて成長した家光も、幕府の将軍としては有能だったと言えるでしょう。

父・秀忠が存命中は目立った政治を行わなかったものの、秀忠の死後は次々と新しい政策を打ち出していきます。

代表的なものが、

老中や若年寄など幕府の役職の確立

諸大名へ定期的に江戸に参るように義務付けた参勤交代の導入

日本の植民地化を防ぎつつ、外交の利益を独占するための鎖国体制の完成

など。

徳川将軍家の立場を盤石にするための制度を作り上げていきました。

家光は48才で亡くなりましたが、3代目の将軍として挙げた功績は大きなもの。

心に抱えた苦しみをバネに、やり遂げたことは大きなものでした。

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