島原の乱の中心人物だった天草四郎

本名は益田四郎時貞といい、乱のときはまだ16才でした。

絶世の美少年と言われ、キリシタンの間で「救世主」と呼ばれるほどのカリスマ性を持っていたようですが・・

その真相は?

謎に包まれた出生の秘密にせまります!

益田四郎時貞のプロフィール

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益田四郎は戦国時代の武将・小西行長の家臣の家に生まれました。

といっても小西行長は関ヶ原の戦いで敗れて斬首となっているので、益田家は百姓のようなものをしていたそうです。

1637年に勃発した島原の乱ではキリシタン達を率いて一揆軍の総大将となり、軍を率いて戦ったと言います。

伝説では、盲目の少女の目を見えるようにしたり海の上を歩いて渡ったりと、キリストのような奇跡が言い伝えられています。

四郎の出現は神父によって予言されていた!?

天草の乱からさかのぼること25年前。

天草にはキリスト教の布教活動をしていたママコフという神父がいました。

当時キリスト教の禁教令が出され、ママコフは迫害されてマカオへ追放されること。

その時ママコフは、こう預言します。

「25年後、16才の神童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう。」

そして25年後に現れたのが、預言通り16才の益田四郎時貞でした。

四郎が現れたことで、キリシタンたちは「天国の実現=一揆軍の勝利」を信じたのでしょう。

3,7000人もの人が一揆に参加しました。

島原の乱の失敗が証明すること

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ここで益田四郎時貞が勝利していたら、「確かに救世主だった!」と言えたかもしれません。

でも残念ながら一揆軍は全滅し、ママコフの「天国実現」の預言は実現しませんでした。

ということはつまり、「16才の益田四郎時貞」も救世主ではなく普通の子だった・・ということですよね。

考えてみれば、ママコフの預言の25年後に16才になる子供なんて、ごろごろ見つかります。

その中から少しでも人を惹きつける子供を選べば、救世主をでっちあげることは簡単。

一揆の総大将と言っても内側では浪人たちが指揮を取っていたようです。

人々の団結を図るために、「天草四郎」という人物が作り上げられたのでしょう。

四郎は「豊臣秀頼の落胤!?」説の真相

益田四郎時貞には「救世主説」のほかに実は「豊臣秀頼の落胤説」もあるのです。

その根拠は二つ。

一つ目に、四郎の旗印が豊臣秀吉と同じ「瓢箪」であること。

もう一つは薩摩の書には、益田四郎のことを「豊臣秀綱」と記してあることです。

こちらの説の信ぴょう性は分かりませんが・・

「16才の美少年、乱の総大将として若く散る」

という人生が、四郎をミステリアスな存在に見せているのかもしれません。

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