井伊直弼と言えば「権力を欲しいままにした悪役」というイメージ。

「桜田門外の変」で暗殺されたのも身から出た錆・・だとする見方が強いです。

ところが記録から伝わってくる彼の姿からは、「権力者」というより「忠臣」

将軍が真に信頼をおく人物だったようです。

それではなぜそんな井伊直弼が暗殺されたのか?

「桜田門外の変」が起った経緯を、時代の流れを追って説明をします。

孤独な将軍の心を救った井伊直弼

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井伊直弼が大老として活躍するようになったのは13代将軍・家定のころ。

歴史的事件としては、ペリーが黒船に乗って現れ、日本へ開国を要求していたころでした。

徳川家定は歴史的には

「バカで無能な将軍」

として評価されてきた人物です。

でもこれは実際には、政治的意図で巧みに作り上げられた偽りのイメージだと、近年では言われています。

当時の幕政の中心であった一橋派によって、無能に仕立て上げられていたのです。

一橋派と言うのは、水戸藩主徳川斉昭の七男「一橋慶喜」を将軍に据えようとする派閥の呼称です。

斉昭は「尊王攘夷」のカリスマ的リーダーであり、それを実現するために我が子慶喜を将軍にしようとしていました。

そんな中将軍職に就いた家定は、故意に政局を外され発言力を奪われていたようです。

当時の家定の心境を、家定の正室である篤姫がこう述べていたといいます。

「始終方々より馬鹿ばかと責付けられて、頼る所なく、内情常に心配絶えず・・」

そんな家定の鬱屈した気持ちと、押さえつけられていた能力に気づいた人物が井伊直弼でした。

直弼は

「将軍様はこれまで評価されていたように無能ではない」

と言って、家定に自信と安心を与えました。

家定はその自信をもって、次期将軍を慶喜ではなく「家茂」と宣言。

これは家定が将軍として、唯一自分の意思を発した場面でした。

幕政を牛耳っていた一橋派を処罰「安政の大獄」

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その後家定と直弼は、一橋派の処分に乗り出します。

一橋派が、直弼が結んだ「日米通商修好条約」に異論を唱え、朝廷へ密勅を送ったり江戸城へ無断登城するという暴挙に出たからです。

これにより徳川斉昭や一橋慶喜をはじめ、多数の一橋派有力者が謹慎することとなりました。

(ちなみに将軍・家定はこの処分の翌日に病死をとげており、一橋派による暗殺も疑われています。)

「安政の大獄」で志士が過激化・・桜田門外の変を起こす

安政の大獄で一橋派を抑えたかにみえた井伊直弼。

でしたが尊攘派のカリスマを罰したことは、尊王攘夷の志士たちの過激化につながります。

「桜田門外の変」は、その過激化した志士の一番最初の暴発でした。

1860年の3月3日。

雪の中江戸城へ挨拶に向かった直弼の一行は、直訴を装った水戸浪士によって襲撃されます。

井伊直弼は暗殺され、時代は大きく動き出します。

この事件は、直弼と対立していた水戸藩主だった斉昭にも衝撃を与えました。

斉昭ら一橋派の想定を超えて、過激派志士たちが時代を変えようと自ら動き出し始めたからです。

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