幕末・薩摩の偉人「西郷隆盛」

知らない人はいない程の有名な人物ですが、その素顔はどんな人物だったのでしょうか?

人物像がよく分かる歴史的なエピソードを紹介しながら、考察します!

予備知識:西郷隆盛のバックグラウンド

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鹿児島城下の最下層「御小組」出身で身分が低かったものの、島津斉彬によって引き立てられる。

水戸藩の尊王攘夷論の影響を強く受けた。

西郷どんの人物像がにじみ出るエピソード

仲間を守り切れないなら・・共に自害をこころみる「厚い人情」

13代将軍・徳川家定の跡継ぎを巡って対立した、慶福(家茂)派一橋慶喜派

薩摩藩は一橋慶喜を推して活動をしていました。

島津斉彬に取り立てられた西郷隆盛の仕事は、慶喜を勝たせるための情報収集活動

西郷は熱心に取り組みました。

しかし家茂が将軍となり、一橋派は井伊直弼によって厳しく弾圧されます(安政の大獄)。

西郷は同じ一橋派の仲間であった寺の住職・月照を助けますが・・

月照と西郷は追い詰められます。

そして「月照の命を守り切れないなら」と、共に自殺をはかったのでした。

しかしかろうじて命を取り留めた西郷。

この後「菊池源吾」と改名し奄美大島に潜伏することになりますが、命をいとわない程の仲間への愛情がそこにはあったのです。

意に沿わない時は主君にだって反抗する「反骨精神」

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菊池源吾として奄美大島へ潜伏していた西郷隆盛。

島津久光によって、薩摩へ呼び戻されます。

ところが上京しようとする久光の考え方が気にくわなかった西郷は、久光に対して「地ごろ(田舎者)」と暴言を吐きます。

この時から久光の西郷嫌いが始まってしまいましたが・・

西郷は気にしませんでした。

その後結局、久光に付き添って上京した西郷。

その道の途中尊攘派の志士の暴発を止めようとして、逆に久光から首謀者の疑いをかけられてしまいます。

こうして沖永良部島へ流されることになったのでした。

信念を貫くためにはどんな行動もいとわない「高い理想」

久光に疎まれて流刑になった隆盛ですが、盟友・大久保利通によって表舞台に呼び戻されます。

この時には、尊王の信念を貫くために久光に反発することもなく従います。

王政復古のクーデターが成立した際には、徳川家の政治的支配力を奪うために徳川家の辞官納地を決定する会議(子御所会議)の警備を担いました。

その会議の場で、辞官納地を受け入れない公儀政体論派の土佐藩・山之内容堂を「短刀一本あれば片付く」と脅すという、過激な一面も見せます。

信念の実現のためにはどんな行動もいとわなかったのです。。

高い理想のために・・維新後、信念を曲げられず政界引退。不満分子と共に散る

明治維新後は新政府で廃藩置県、版籍奉還、徴兵令施行や地租改正など、重要な改革で活躍した西郷隆盛。

ところが征韓論を巡り大久保利通を対立し、鹿児島へ戻ることになります。

あくまでも交渉による融和を求めた西郷は、出兵することを受け入れられなかったのです。

その後、新政府に不満をいだくし学校生徒に擁立された西南戦争で自決します。

まとめ:西郷どんは「理想を貫き仲間を愛した人」

西郷隆盛は下級武士から身を立てて政治の第一線に身を置くようになるものの、一貫して「理想の実現のため」に動いた人物だったようです。

また理想を共に抱く仲間への愛情も厚かったのですね。

ただし、その理想実現のためには、自分の死もいとわない。

行動に一本筋の通った人物であることが分かります。

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