田沼意次意知は、共に異例の大出世をし、幕府の要職についた親子として有名です。

そして特に意次には「賄賂を横行させた政治家」という汚れたイメージが。

しかしこのような汚れたイメージは意図的に作られたもので、本当は経済の才能を持つクリーンな政治家だったのではないかという見方があります。

この記事では、そんな田沼親子の真実の姿を追究しました。

学校で教えられる、悪役としての田沼意次・意知

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9代将軍家重と10代家治の時代に、側近から破竹の勢いで出世し、老中となった田沼意次。

同じく息子の意知も、老中に次ぐ要職の若年寄となり、幕政の中心人物となりました。

そんな田沼親子について、学校ではこのように教えられます。

「権力を私的に使い、賄賂などを横行させて商人たちを腐敗させた人物」

私も田沼親子については、

きっと出世したのも内部工作だろう。

民のためではなく、自分のために政治をしていたんだろう。

という印象がありました。

でも実はこの「悪徳政治家」のイメージは、田沼親子の出世を嫉妬する反田沼派が植え付けたもの。

田沼親子が推し進めた先進的な改革に戸惑った市民の評判を利用して、植え付けられたものだったのです。

実は世界で高く評価されている田沼意次の改革

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我々が悪政として認識している田沼意次の改革は、実は世界では高く評価されている、優れた内容のものでした。

それが上手く行かなかったのは、単に改革の内容が「先進的過ぎたから」。

そもそも、田沼意次が改革に乗り出したのは、8代将軍徳川吉宗による「質素倹約令」が発端です。

吉宗は、幕府の財政を安定させるために幕府の支出を減らし、一方で農民から取り立てる年貢を増やします。

これで財政が安定した・・と思いきや、起こったのは

農民たちの一揆

米の量が増えたことによる米の価値の暴落

でした。

取り立てる年貢の量が増えても、大名たちがもらえる米の量は増えるわけではないので、米を増やしても豊かになるわけではありません。

そんな状況をみて田沼意次が考えたのは、「米=カネ」とみなすそれまでの常識を覆し「貨幣」を流通させる仕組みを作ることでした。

でもこの考え方は当時の意識では型破りだっただけでなく、当時の官学である「朱子学」の「金銭のことを考えるのは卑しいことだ」という教えにも反していました。

そのため貨幣経済を理解できない幕臣や市民が多く、それを利用した反田沼派の勢力によって、

「田沼親子は悪徳政治家」

というイメージがつけられてしまったのです。

そんな中、息子の意知が江戸城内で襲撃されて亡くなり・・

父の意次もそのまま失脚してしまいます。

この出来事を、海外では「唯一日本の将来を考える貴重な人材の死」として惜しんだということです。

結論「田沼親子」の失脚は腹黒すぎたからではなく「クリーンすぎたから」

田沼家はその後、財産や屋敷を没収されることになりますが、財産の蓄えはほとんど見つからなかったとか。

「私腹を肥やすために賄賂を横行させた」ということが、ただのイメージに過ぎないことがこのことからも分かります。

「悪徳」が理由で失脚したと思い込まされてきた田沼親子ですが、実はその逆。

内部工作ができない「クリーンすぎたこと」が、失脚の原因だったのかもしれません。

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