11代将軍「徳川家斉」は、50年もの長きに渡って江戸幕府を治めた人物です。

一人の人物がこんなにも長く権力の座にあったということは、その治世が安定していたということなのでしょうか?

実はこの家斉の時代は、平和な江戸時代から激動の時代へと転換したターニングポイント。

この50年間で、江戸幕府の基盤を大きく揺るがせることになったのです。

倒幕への布石が打たれた徳川家斉の治世

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徳川家斉といえば、異常な性欲の強さや変人ぶりが話題になることが多い将軍です。

政治はと言えば側近に任せられ、「寛政の改革」の松平定信が家斉の時代の老中として有名です。

この側近任せの政治が50年続くうちに、

政治面での失策

幕府の弱さを浮き彫りにするような事件

が多発しました。

これらは知らないうちに、倒幕への布石となっていったのです。

海外への備えを怠った松平定信・・対外政策の弱さを浮き彫りにした「モリソン号事件」

先にも書いた老中の松平定信は、

国防の危機を説いた林子平を処罰

蝦夷地の開発を放棄

蘭学などの西洋の学問を禁止

など、対外的な政策を軽視するようになります。

ところが日本近海にアメリカの商船「モリソン号」が現れた時、幕府はモリソン号が非武装艦だったにも関わらず攻撃するなど・・

異国船への脅威に慌てることに。

このような、海外への備えを怠りながらも、異国船とみれば無差別に攻撃する幕府の対外政策に、蘭学者の高野長英らは激しく非難しました。

腐敗した役人の政治と「大塩平八郎の乱」

また家斉の時代は官僚の腐敗が横行した時代でもありました。

多発する飢饉にも関わらず幕府の役人は米を不当に買い占め、民衆のことを顧みません。

この事態に怒った大坂の元奉行与力で陽明学者の「大塩平八郎」は、門下生らと共に挙兵します。

事前に内通者が出たためにすぐに鎮圧されますが、この乱は各地に伝播し、多くの乱が起こるきっかけとなりました。

反幕府の動きを後押しした「国学」の興り

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これらの幕府への不満や非難・反感は、「国学」という思想によって後押しされます。

「国学」「日本古来の考え方や精神性」を重んじる学問です。

幕府が進める中国の学問「朱子学」による統治を批判し、代わりに天皇を崇拝するようになります。

「国学」が完成されたのは本居宣長による「古事記」の研究が大きく貢献していますが、この時代に研究がすすめられたことは幕府によっては不運な偶然と言えるかもしれません。

「なんとなくくすぶっていた幕府への反感」の後ろ盾となる思想が出来てしまったからです。

国学に基づく尊王の思想は、倒幕運動へとつながっていきます。

まとめ

徳川家斉50年の治世は、家斉自身にとっては幸福な時代だったかもしれません。

でも過去の将軍たちが大事に培ってきた「平和」の蓄えを食い荒らしてしまったと言えます。

☆☆☆

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