1837年に大坂でおこった大塩平八郎の乱は、江戸幕府の権威を失墜させる原因にもなった反乱です。
乱事態は事前に発覚しすぐさま鎮圧されましたが、幕府の事後対応のまずさが幕府の信用を損なったのです。
ここでは大塩平八郎の乱が起こった経緯からその結末までをお伝えします。
大塩平八郎のバックグラウンド
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そもそも反乱を起こした大塩平八郎とは、どのような人物だったのでしょうか?
彼はもともと幕府の役人(大坂東町奉行与力)で、非常に正義感の強い人物だったようです。
内部不正を暴き、同僚からは敬遠されていたといいます。
また独学で「陽明学」を学び、私塾も開くほどの傾倒ぶりでした。
陽明学とは、儒学から派生した学問の一つです。
同じく儒学から派生し、幕府の官学となっている「朱子学」と対立する主張を持つ学問です。
朱子学は「道徳に従うこと」を良しとしたので、秩序が生まれて為政者にとっては大変都合の良い学問でした。
反して陽明学は心を縛る道徳を批判し、「心をありのままにすること・心に従うこと」を良しとします。
大塩平八郎はこの教えを深く信じていましたから、幕府の統治の仕方に反感を持っていました。
乱がおこった経緯とその結末
大塩平八郎が乱を起こしたのは、幕府の役人を引退してからです。
陽明学者として塾を開き活動していたころ、日本では深刻な飢饉が起こりました(天保の大飢饉)。
幕府は本来なら、飢饉によって起こる米不足に対処しなければいけない立場です。
ところが大塩の住む大坂の役人たちは、米を買い占めるばかりで、大塩の進言にも耳を傾けようとしませんでした。
当時の幕府は、11代将軍家斉による50年の治世の時代。
側近による政治が長く続き、腐敗していたのです。
大塩は、この腐敗した官僚を変えるには過激な手段に出るしかないと考えます。
武器や火薬を手に入れ、門人たちと共に挙兵することを計画しました。
そして同時に江戸城の老中へ建議書を送り、政治の改善を求めようとしたのです。
ところが事前に内通者が出て、反乱はすぐに鎮圧されてしまいます。
大塩はしばらく潜伏したのち、江戸へ送った建議書も押収されてしまったことを知ると、自害しました。
塩漬けの平八郎を磔にし・・幕府の威信は地に堕ちた
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このように反乱は失敗に終わったにも関わらず、幕府は民衆からの信用を失い始めることになります。
そこには幕府の事後対応のまずさが影響していました。
当時は「重罪人を磔にする」ということが常識でしたが、大塩平八郎が磔にされなかったのです。
実際には、大きな事件のために調査が進まず、平八郎の遺体は塩漬けにされていたのですが、それを
「実は捕まっていなかったのではないか」
と考える人々が出るようになりました。
その声を静めるために、1年以上もたった後に塩漬けの平八郎の遺体が磔にされることになります。
ですが、それも「本人じゃないのではないか」といった憶測を生むことになったのでした。
☆☆☆
反乱の首謀者が捕まっていないとすれば、幕府には治安を維持する能力が備わっていないのではないかということになります。
幕府がこの事件について、たびたび朝廷へ報告していたこともこの状況に追い打ちをかけます。
傍から見ると「やはり朝廷は幕府より上の立場」という印象を与えたからです。
「日本の統治者は天皇だ」
「幕府には力がない」
幕府自らの事後対応のまずさがこのような印象を民衆に与え、大塩平八郎の乱はその後の幕府の運命に大きな影響を与える事件となりました。
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