鎖国が終わりをつげ、「安政の大獄」など、幕府内の勢力争いが激化した不安定なこの時期。
14代江戸幕府将軍となったのが「徳川家茂」です。
家茂は将軍就任直後に大きな後ろ盾を失い、非常に不安な中で将軍職をとることになります。
しかしそれを救ったのは、家茂自身の意外な柔軟性でした。
歴代江戸幕府将軍の中で唯一戦争のさなかで死を迎えた将軍の、ドラマティックな生涯をお伝えします。
徳川家茂が将軍になった経緯と、彼を取り巻いた時代背景
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徳川家茂は11代将軍・家斉の孫です。
一橋慶喜を擁する「一橋派」との熾烈な継承権争いを勝ち抜き、14代将軍となりました(ちなみに家茂側は南紀派)。
といっても、一橋派と熾烈な争いをしたのは先代将軍家定と大老だった井伊直弼。
自分は訳も分からず将軍になったので、将軍に就いたころはワガママな若者だったようです。
ところが大きな後ろ盾だった井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、幕府内の勢力図は一変。
安政の大獄によって追いやられていた一橋派が勢力を盛り返してきます。
この危機を乗り切るために南紀派は、皇女和宮を家茂の妻にし朝廷の後ろ盾を得ようと画策します(公武合体)。
しかし幕府はこれを「鎖国に戻し攘夷をする」ことを条件に許可を取り付けたにも関わらず、その約束を反故にしてしまいます。
そのために、尊王攘夷派からの幕府への反感を強めてしまうことになりました。。
薩摩・長州の脅威と、一橋派の復活
幕府が弱体化するに従い、長年力を抑えられてきた薩摩藩や長州藩などの「雄藩」が力を取り戻すようになります。
京都では過激になった志士たちの活動の取り締まりを、天皇が薩摩藩に命じることに。
薩摩藩はそれをきっかけに発言権を強め、安政の大獄でとらわれていた一橋派の赦免を要求します。
また長州藩は「攘夷」の過激な思想を実行し外国船を砲撃。
また武力で天皇を擁しようと、御所を襲撃します(禁門の変)。
家茂はこんな嵐のような時代に、ぽつんとたたずんでいるようなものでした。
反目しているはずの一橋派・・家茂はどのように対応したのか
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薩摩藩の働きかけによって放免された一橋派。
その中心人物が越前福井藩主・松平春嶽でした。
幕府内の勢力は、春嶽ら一橋派に再び握られるようになります。
家茂にとっては生死にかかわる、一橋派の台頭。
ですが家茂は、この現実を意外な方向で受け入れます。
春嶽がゆるされ家茂にはじめてあった日、春嶽は無礼にも家茂にこう言いました。
「もはや(幕府の)権威は地に堕ちた。」
この一言を聞き、家茂の立場なら「謀反だ」と怒るか、あるいは「自分は排除される」と危機感を抱いても仕方がありません。
ところが家茂はこの言葉を素直に受け入れ、春嶽との頻繁な面会を望むようになりました。
おそらく家茂は、単なるお飾りの将軍ではなく、時代の流れをよく考え、
「今の時代に必要なことが出来る将軍になりたい」
と思ったのでしょう。
春嶽はこの後、参勤交代の緩和など幕府の権力を低下させるような施策を打ちますが、それにも賛同しています。
また家茂は徳川家光以降、はじめて将軍として東海道をくだり上洛しています。
その姿は自由に見物することを許され、家茂が徒歩で歩く場面もあったといいます。
それを家茂が受け入れたのは「君臨する将軍」ではなく「先頭にたって行動する将軍」でありたいという心のあらわれかもしれません。
第二次長州征伐のなか、大坂城で死去。
そんな家茂は、21才の若さで死去します。
禁門の変後、二度目の長州征伐で大坂城へ逗留している最中のことでした。
幕府の権威回復のため自ら指揮をとろうとしましたが、敗報と大坂打ちこわしの中で無念の死。
死因は脚気でした。
脚気を悪化させたのは「虫歯」が原因だと言われており、ほとんどすべての歯が歯根まで侵されているような重度の虫歯だったと言います。
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