「王政復古の大号令」とは、幕末に起こったある「クーデター(政変)」を指します。
これにより、江戸幕府は倒され「王政」=「天皇中心の政治」へ回帰することになりました。
天皇中心の政治形態がとられていたのは鎌倉時代以前だったため「王政復古」と呼ばれています。
しかしこの「王政復古の大号令」、いったい「誰が、何のために」起こしたのでしょうか?
背景にあった、日本の近代化をめぐる派閥争いや「大政奉還」という歴史的出来事を交えて解説します。
幕末の近代化をめぐる勢力図 公議政体論派 vs. 討幕派
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幕末、日本の近代化に向けて二つの派閥が争うようになっていました。
一つが、江戸幕府主体の近代化をねらう「公議政体論派」。
そしてもう一つが、江戸幕府を倒して新たな政治制度を作りたい「討幕派」です。
公議政体論派には越前藩、尾張藩、土佐藩などが。
討幕派の筆頭には薩摩藩、長州藩がいました。
両者の勢力は、始め均衡状態。
とくに当時の天皇・孝明天皇が「反討幕派」だったため、討幕派は目立った活動が抑えられていました。
ところが孝明天皇が崩御すると、討幕派の公家岩倉具視が幼い天皇(のちの明治天皇)を擁立。
形勢は一気に討幕派へ傾きます。
そこで「黙っていてはつぶされる」と動いたのが、公議政体論派の土佐藩です。
土佐藩は後藤象二郎や坂本竜馬の提案した「船中八策」を修正し、「大政奉還の建白書」を将軍慶喜に提出しました。
これは政権を天皇に返しはするものの、徳川将軍を議長に据えた議会の設立を訴えるものでした。
「大政奉還」で倒幕派の機先を制した公議政体論派
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1867年10月14日、天皇は15代将軍徳川慶喜の「大政奉還」を受け入れます。
それはちょうど、討幕派が「倒幕の密勅」を受け取った日と同じ日でした。
しかし討幕派は「大政奉還」がなされたことによって、密勅を実行する理由を失います。
公議政体論派が、討幕派の機先を制したかのようにみえました。
クーデター「王政復古の大号令」を実行。江戸幕府が倒れる
一時は大政奉還により、江戸幕府を存続したままで近代化が進むかのように見えた矢先。
薩摩・長州がクーデターを起こします。
それが「王政復古の大号令」です。
1867年12月8日、徳川家以外の申し合わせた雄藩だけが御所に参内し、明治天皇の隣席のもとで
「天皇を頂点とする諸藩連合政権をつくる」
と宣言したのです。
またその時、江戸幕府の廃止が決定されました。
「王政復古の大号令」により権力を失くした徳川家
新議会の要職は徳川家抜きに決められ、総裁・議定・参与など議会の要職の大半を討幕派の公家や薩摩・長州が占めることとなりました。
こうして徳川家は、政治の権力を失ってしまいます。
またそれだけでなく、官位と領土まで返還することになり(辞官納地)徳川家は全てを失うことになりました。
まとめ
「王政復古の大号令」とは、江戸幕府を倒して徳川家から権力を奪い、天皇を頂点とした議会を設けるための「クーデター」でした。
その後政治の中心には、薩摩・長州などの討幕派が名を連ねます。
徳川家は権力の全てを失いますが、13代将軍・家定の正室・天璋院(篤姫)や14代将軍家茂の正室・和宮の奔走により、断絶の危機を免れることになります。
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