江戸幕府は、徳川家康が征夷大将軍に任命された1603年から1867年まで続きました。

ここでは、260年もの平和な時代を築いた江戸幕府のしくみについて、概要を解説します!

江戸幕府の政治体制

Sponsored Link

幕府の政治は、征夷大将軍のもとに置かれた

老中

若年寄

三奉行(寺社奉行、勘定奉行、町奉行)

を中心に行われました。

「老中」は征夷大将軍に次ぐ役職で、将軍の直下で政治を補佐しました。

譜代大名の中から4~5名が選ばれ、一か月交代で仕事をしました。

「若年寄」は、老中に次ぐ役職です。

こちらの役職も譜代大名から選ばれ、旗本や御家人を管理しました。

三奉行のうち「寺社奉行」は、寺社の領地や建物、僧侶などを管理した役職です。

譜代大名から選ばれ、三奉行の筆頭とされました。

「勘定奉行」は財政や幕府直轄領の管理担当で、旗本から任命されました。

同じく旗本から任命される「町奉行」は、領内の都市部の行政・司法を担当しました。

以上が江戸幕府の政治組織ですが、その他に老中の上に「大老」が置かれることもありました。

大名たちを管理したしくみ

Sponsored Link

「武家諸法度」による監視

幕府が治安維持をするために欠かせなかったのが、全国の大名の監視でした。

そのために幕府は「武家諸法度」という法律を作り、大名たちに守らせました。

ちなみに武家諸法度が最初に制定されたのは1615年のこと。

その後、将軍が変わるたびに、何度も改訂されました。

内容は「幕府の許しをなしに城を建ててはならない」「大名同士で勝手に縁組をしてはいけない」といったものです。

大名たちがこの武家諸法度を守っているかどうかは、「大目付」という役職が監視していました。

そして武家諸法度に背く大名があれば、領地を取り上げたり、領地を削るといった罰を与えました。

参勤交代による締め付け

また大名たちは、一年交代で国元と江戸に住むという「参勤交代」が義務付けられました。

これは幕府が、江戸に置いた大名の妻や子供を人質にするためのものでした。

江戸と領地の往復は行列を組んで行われましたが、多くの費用がかかり、そのために大名たちは慢性的に財政難の状態にありました。

天皇・公家を管理したしくみ

Sponsored Link

大名たちを統制した「武家諸法度」と同様、幕府は天皇や公家に対しても「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」を制定し彼らを規制しました。

その法律の中で、天皇は年号を改める他は学問や芸術を楽しむことを勧められ、政治に関係することには口を出さないようにされていました。

農民を管理したしくみ

江戸時代、武士たちの財源は農民たちから取り立てた「コメ」でした。

農民たちから確実にコメを取り立てるために、幕府は農民も厳しく取り締まりました。

その取り締まりの一つが、「慶安のお触書」です。

その中で食事や(コメは食べてはいけない。粟や大根の葉を食べること)、着るもの(麻や木綿以外は着てはいけない)も細かく決められていました。

より詳しい、農民の暮らしや年貢の取り立てについては、こちら↓

「 江戸時代の武士を支えた「農民」・・その暮らしや年貢、百姓一揆について解説!」

まとめ

江戸幕府は、多方面に対して厳しい制限を設け、綿密に管理していたようです。

この管理体制は効果を発揮し、外国からの脅威により革命の機運が高まるまで、江戸幕府の支配は続きました。