桂小五郎といえば、のちに木戸孝允と改名し「維新の三英傑」に数えられる人物。

(残りの二人は西郷隆盛と大久保利通)

歴史的な偉業を成し遂げたことに加えて、芸者「幾松」との純愛も有名です。

ところが、小五郎と幾松の関係は、実はそんなにロマンティックなものでは無かったのでした。

桂小五郎の奔放な女性関係に加えて、幾松の小五郎と結婚後の禁断の恋など・・

スキャンダラスな二人の関係について調べてみました!

桂小五郎のプロフィール

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桂小五郎は1833年、長州藩の医者の家に産まれ、隣家の桂家へ養子へ入りました。

吉田松陰との交流

長州藩で革命的思想の火付け役となった吉田松陰とは少年期に交流し、刺激を受けます。

安政の大獄で松陰が刑死した時も、埋葬したのは小五郎でした。

長州藩の顔として尊王攘夷にまい進

江戸へ出て尊王攘夷の思想に影響を受け、幕府の公武合体政策に対抗しながら諸藩の志士たちとも交流を持ちます。

薩摩や水戸の藩士たちと連携をとり、日米和親条約の破約や老中・阿部正弘の暗殺を謀るなど工作活動をしましたが、どれも失敗に終わりました。

小五郎よりも過激な行動をとり始めた長州藩志士たちが暴発した禁門の変で重罪人となり、身を隠すことに。

(その間、幾松の献身的なサポートがあったと言われています)

しかし薩長同盟の締結後は歴史の表舞台にたち、維新後も版籍奉還や廃藩置県に尽力しました。

幾松のプロフィール

幾松はもともと小浜藩(福井県)士の家にうまれ「松」という名でした。

ところが天保の飢饉がきっかけで一家が離散すると、松は母親を頼って京都へ移り住みます。

しかし母親には松を養う力がなく、ある公家侍の家へ養女に出されました。

松はそこで笛などの芸をならい、9歳で舞妓になります。

桂小五郎との出会い

三本木という花街で舞妓をしていた幾松は、19歳のころ桂小五郎と出会います。

その時小五郎は29歳でした。

幾松はその時すでに商人に身請けされる約束をしていましたが、小五郎がそれを阻止します。

二人の関係が「純愛」と言えるのは、このころまでかもしれません!

桂小五郎の奔放な女性関係

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その後、禁門の変で重罪人となり身を隠すことになった小五郎ですが、

「こじきの振りをして橋の下に住んでいた小五郎に、幾松がおにぎりを投げた」

というのは有名な二人のエピソードです。

ところがこの「おにぎりを投げた人物」は、どうやら幾松ではなかったよう。

実際におにぎりを投げていた女性は長州藩御用達の商人の下女で、桂小五郎と深い関係にあった女性ということです。

他にも小五郎は、逃亡生活の中でたくさんの女性を関係を持って行ったようです。

同じ尊王攘夷活動をしていた志士の娘

城崎温泉の芸妓

泊まった宿屋の娘

などなど。

幾松も逃亡先の城崎温泉に小五郎を訪ねたことがあったようですが、さすがに気付きますよね。

それでも小五郎を責めるより尊王攘夷の活動を励むように励ましたのだとか。

女性関係にいろいろ不信はあったようですが、維新後二人は晴れて結婚しました。

結婚後も続く女遊びと、幾松の浮気

幾松と正式に結婚した後も、小五郎の女癖の悪さは治らなかったようです。

(この時、小五郎は「木戸孝允」、幾松は「松子」に改名していました)

浮気相手との間に、子供が産まれたり、幾松の妹にも手を出す始末でした。

幾松もだんだんと嫌気がさしてきて、小五郎が岩倉使節団で欧米に訪問している間になんと浮気をしてしまいます。

相手は若い歌舞伎役者だったようです。

そんな風に心が離れている中、小五郎は45歳で病気を患いこの世を去ります。

病床では夫婦の愛が復活したのか・・と思いきや、小五郎は上の空でたくさんの女性の名前を口にしたので、幾松の心は晴れないままだったと言います。

今も存在する旅館「幾松」に入ってみた!

さて、小五郎が京都で仮住まいをしていた場所は、いまも旅館「幾松」として現存しています。

命を狙われた時のために、隠し通路や岩が落ちてくる仕掛けなどがあった「幾松の部屋」。

実はこの部屋を実際に見たことがあります!(めっちゃ自慢です)

京都で大学生をしていたころ(10年以上前)に、同じ大学の友達が幾松の夜間守衛をしていて、忍び込ませてくれたのです。

畳を上げると、下には鴨川まで続く階段もありました(今はもう、そこから鴨川へ出ることはできません)。

貴重な歴史の現場にたててとても嬉しかったのですが、小五郎の女癖の悪さに若干冷めてしまいました。

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