「楠本イネ」はオランダ商館医師のシーボルトを父に持ち、後に女性初の医師になった人物です。

でも彼女の道は、性的差別に満ちたいばらの道でした。

それでも意志を貫きとおした女医「楠本イネ」の生涯について、この記事では簡単にまとめてみました!

イネの母・楠本たきとシーボルトの出会い

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楠本イネの父は、長崎出島のオランダ商館で医師を務めていた、ドイツ人のシーボルトです。

母のたきは商家の娘として生まれましたが、遊女として出島で異人たちを接待するうちに、シーボルトに出会いました。

シーボルトはたきを深く愛したと言います。

イネは1872年に生まれましたが、家族で過ごす出島での日々は幸せなものだったことでしょう。

「シーボルト事件」で父が強制帰国

ところがそんな中、イネたちの生活を覆す事件が起こります。

「シーボルト事件」です。

シーボルトが国外持ち出し禁止の日本地図を船に積んだとして、関係者たちが厳しい詮議を受けることになります。

シーボルトはスパイ容疑をかけられ、日本から追放されることになってしまいました。

その後、イネの母のたきは再婚。

イネも養父に可愛がられて育ちますが、離れて暮らす実父への思いから医師を志すようになります。

そして単身、父・シーボルトの門人のもとへ医学を学ぶ旅に出ます。

性的暴行を受け、娘を妊娠・出産する

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初め宇和島の外科医・二宮敬作に学んだイネは、その後産科を学ぶため同じく父の門人で備前岡山の婦人科医をする石井宗謙のもとへ移ります。

ところが悲劇はここで起こりました。

妻帯者だった宗謙はイネを無理やり暴行。

その末に、イネは子供を身ごもり、娘を出産しました。

当時、きっと門人たちの中に女性はイネひとり。

男性に囲まれた環境の中で、師から受けた暴行にイネはどのように耐えたのでしょうか。

それでも彼女は医師への道をあきらめることはありませんでした。

子連れで産婦人科医を開業。日本初の女医に。

そのような辛い出来事にも屈せず、イネは長崎へ戻ると産婦人科を開業します。

またそこで出会った村田蔵六とともに、オランダ語を学び学問を深めました。

その後、罪を解かれた父・シーボルトにも再会。

維新後は産院を東京に移し、明治天皇の典侍のお産にたずさわるなど、産科医として活躍の場を広げていきます。

ところが彼女の身に、ふたたび女性差別の壁が立ちはだかります。

法律変更・・女性に医学の道が閉ざされる

1875年、医師学術試験規則が定められました。

この規則により、国家試験に合格しないものは医師の資格が認められなくなったのです。

しかし問題は、この規則では女性は受験することすら認められていないということでした。

イネは長年勉強してきた医学への道が、急に閉ざされてしまいます。

レイプにあってまで、耐え忍んで貫いてきた道が。

イネが49才のことでした。

どんなに無念だったでしょうか。

イネは東京の産院を閉じ、長崎で産婆とし余生を過ごします。

77才で他界しましたが高齢になっても人に頼ることをせず、貧しい中で「産婆」としてのプライドをもって仕事をし続けたといいます。

☆☆☆

混血でもあった楠本イネの生涯は、差別や理不尽で満ちていたことと思います。

それでもあきらめず、出産に携わる仕事をし続けた信念には頭が下がります。

私もそんな環境で、腐らず何かを成し遂げられるでしょうか?

たぶん・・いや、絶対に、今の私のままでは無理でしょう。

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