平安時代を中心に活躍した「陰陽師」。
これは、中国から来た「陰陽説(おんみょうせつ)」が、日本独自に発展を遂げた結果として誕生したものでした。
ではどのようにして発展していったのでしょうか?
調べてみました!
ベースは、聖徳太子が中国から取り入れた「陰陽説」と「五行説」
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陰陽師が使った陰陽道は、中国から入ってきた2つの学問(科学?)をベースとして発展したものです。
その学問とは「陰陽説」と「五行説」でした。
「陰陽説」とは、あらゆる物事を「陰(いん)」と「陽(よう)」に分類する学説のこと。
中国ではこの「陰陽説」を使って、都の位置を決めたりしていました。
また「五行説」とは、自然の物事はすべて「木・火・土・金・水」の5種類の元素からなるとする学説のこと。
この5種類の元素の生滅盛衰によって(簡単に言えば割合によって)物事が変化すると考えられています。
五行説は陰陽説の後に誕生し、合わせて考えやすいことから、「陰陽五行説」として一つの学説としても呼ばれています。
これら「陰陽説」と「五行説」を日本に取り入れ、政治に活用し始めたのは聖徳太子だと言われています。
聖徳太子は十七条憲法の発布の年を陰陽五行説で選ぶなど、活用を始めました。
国家機関となり独自に発達しはじめた「陰陽道」と「陰陽師」の誕生
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このように日本で取り入れ始めた陰陽五行説ですが、初めは中国から取り入れたままに使われていました。
ところが、陰陽五行説が政治で活用されるようになり、重要な役割を担うようになると、少しづつ変化していきます。
その中でも大きな変化が起こったのは天武天皇のころ。
陰陽を司る政治機関が出来たのです。
「陰陽寮」の設置
この頃、陰陽五行説は天皇陵や都を作ったり、天変地異の意味を占う時に使われていました。
この占いは、結果次第で天皇の行動や政治を批判することになります。
そのため、誰にでも任せられる仕事ではありませんでした。
そこで、政府は陰陽を司る「陰陽寮」を作り、ここに属する役人以外に「陰陽」を学ぶことを禁止しました。
そしてこの役人たちを「陰陽師」と呼ぶようになりました。
これが「陰陽師」の誕生です。
「陰陽師」に与えられた日本独自の役割
また陰陽寮設置の際、天文や暦、時刻の分析も陰陽師の仕事となりました。
これは、陰陽の占いのためには、彗星の出現など天文の知識などが必要だったためです。
中国では、もともと高度な天文観測が進められており暦の作成も専門的にされていたので、陰陽家たちが調べる必要はありませんでした。
ところが日本では、天文や暦は未発展の分野で、それほど重視されてきませんでした。
そこで、その情報が必要な陰陽師たちが専門家を兼ねることになったのです。
こうして、もともとの「陰陽五行説」には含まれていなかった要素が取り入れられ、日本独自の「陰陽道」を作り上げていくことになります。
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上記の内容は「陰陽道と平安京 安倍晴明の世界 淡交社」を主な参考文献としてまとめました。
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