大山捨松とは、明治期の陸軍卿・大山巌の妻で、日本の社交界の華とも言われた女性です。

ところがその華やかな姿とは裏腹に、彼女は会津藩の家老の家族として戊辰戦争を戦い、その後の辛酸をなめる生活を生き抜くという過酷な人生を歩んできました。

この記事では、そんな「大山捨松」の「辛い幕末期から鹿鳴館の貴婦人として活躍するに至るまでの人生」についてまとめます!

会津藩家老の娘・山川捨松の若松城での戦い

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大山捨松は1860年に会津藩家老の山川重固の末娘として生まれました。

ところが会津藩は戊辰戦争を機に、明治政府に討たれる立場になることに。

山川捨松の家族も(当時は捨松の兄・山川大藏が家老職を継いでいた)主君・松平容保とともに若松城に籠城し、明治政府軍と戦いました。

捨松や他の藩士の妻や娘らは、負傷兵の看護や兵糧を炊くこと、そして弾丸を作ることで男性たちを助けました。

その中で当時七歳だった捨松が主に助けたのは、「弾丸作り」だったといいます。

弾丸となる鉛の弾を蔵から運び出したり、政府軍が城に向けて撃ち込んだ弾丸を拾い集めたりしていたそうです。

敗戦後、極寒の地での過酷な生活

しかし奮闘むなしく、会津藩は政府軍に降伏。

捨松の兄の大藏は、松平容保とともに謹慎ののち、極寒の下北半島(今の青森県)へ赴任することになります。

ここは寒く不毛の地で、多くの藩士たちが寒さと飢えで命を落とすことに。

この環境から捨松を守るために、家族は捨松を土佐出身のキリスト教祭司「山本琢磨」(漫画「おーい龍馬」にも登場する、坂本龍馬の親類)のもとへ里子に出されます。

そしてそこから、フランス人の家庭で育てられることになるのです。

岩倉使節団の女子留学生の一員に

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戊辰戦争から約三年後の1871年。

里子に出された捨松に転機が訪れます。

次兄の山川健次郎が政府の派遣する留学生に選ばれ、その縁で捨松もアメリカへ留学することになったのです。

その時捨松は11歳。

同行する女子留学生の中には津田塾大学の創設者である「津田梅子」もいました。

捨松は留学後ニューヨーク州のヴァッサー大学で学び、学士号を取得した後1882年に帰国します。

経験を活かせず行き詰まる日々

11年に及ぶ留学生活で、捨松は流暢な英語だけでなく高度な学問、一流のマナーを身につけて帰国しました。

ところが当時の日本には女性が才能を生かす場もなく、共に留学した津田梅子や永井繁子らとともに途方に暮れていました。

演劇クラブで演じたシェークスピアが人生を変える

そんな中、同じ留学生だった永井繁子とともに結成した「英語演劇クラブ」が捨松の人生を変えることになります。

繁子の結婚式で演劇クラブの一員としてシェークスピアを演じていた捨松は、そこで1人の男性の見初められました。

それが捨松の夫となる大山巌です。

シェークスピアを演じる捨松を見て、先妻に先立たれた大山巌は捨松を後妻にと望んだのでした。

薩摩藩出身の大山との結婚は、会津で戦った捨松の家族にとっては認めがたいものでしたが、捨松はこの縁談を受け入れます。

大山の妻として活動することで、女性が活躍できない世の中を変えられるのではないかと考えたからです。

アメリカ仕込みのマナーで社交界の注目の的に

政府の重役である大山巌の妻となった捨松は、鹿鳴館での社交パーティに夜ごと参加するようになりました。

そこに参加する貴婦人はみんな西洋のマナーに慣れていなかったので、アメリカで社交術を身につけてきた捨松は注目の的だったようです。

他の日本人女性たちを冷笑していた外国人記者たちは、こぞって捨松を賞賛しました。

看護師養成のための資金集めに成功する

鹿鳴館で一目置かれるようになった捨松は、その人望を活かして鹿鳴館で初めての「上流階級婦人によるバザー」を主催します。

このバザーの目的は、有志共立東京病院で勤務できる女性看護師を養成するため。

当時は女性看護師を養成する費用が足りず、男性がその役目をしていたのです。

捨松の開催したバザーは大いに注目を集め大成功。

目標の千円を大きく上回る八千円の収益を得て、女性看護師養成のための寄付に全額当てられました。

捨松の活動により、女性や妻の立場であっても「社会のために何か行動することは出来る」ということを、女性たちは知ることが出来るようになったのです。

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