東京の国分寺市に「恋ヶ窪(こいがくぼ)」という地名があります。
このロマンチックな地名が生まれたのは平安時代末期ごろ。
数百年も昔の、ある美しい遊女と侍の悲しい恋の伝説が、この場所の呼び名「恋ヶ窪」の由来になったのです。
遊女と真剣な恋に落ちた武士
平安時代末期、武蔵野から鎌倉へ向かう鎌倉街道は宿場町としてにぎわっていました。
そこには遊女たちが商売をする店もたくさんありましたが、そこで働く遊女たちの中でひときわ評判の高い遊女がいました。
彼女の名前は「夙妻(あさづま)」です。
夙妻の評判は旅人によって遠くの場所まで伝えられるほど、大変な人気でした。
そんな夙妻のもとへ、足しげく通う一人の武士がいました。
武士は名前を「畠山次郎重忠(はたけやまじろうしげただ)」と言いました。
畠山次郎重忠と夙妻は、遊女と客の関係を超えて深く愛し合うようになっていたのです。
重忠と夙妻を引き裂いた戦
そんな中、重忠に西国出陣の命令が下りました。
畠山重忠の主君、源義経は平家を追討すべく挙兵したのです。
重忠は夙妻との別れを嘆きながら、戦へと旅立ちました。
夙妻は悲しくても、そんな重忠を涙を流しながら見送るしかありませんでした。
「嘘」が奪った夙妻の命
重忠が戦に発ってから何年もたちましたが、夙妻は重忠のことを忘れることが出来ませんでした。
美しい夙妻に恋をする男性は多くいましたが、夙妻の心はなびきません。
夙妻の心をそんな風に虜にしている重忠に嫉妬をし、1人の男がこんな嘘を夙妻につきました。
「重忠は西国の地で、平家に討ち死にしたらしい。」
男は、重忠が死んだとなれば夙妻の心を振り向かせられると思ったのです。
ところがこの嘘を信じた夙妻は絶望し、自らの喉を短剣で突き刺し自害してしまったのです。
人々は夙妻の一途な心を偲び、墓の上に松の木を植えて弔いました。
するとこの松は、まるで西国にいるはずの重忠を求めるように、枝を西へ西へと伸ばしていったといいます。
武士の嘆きが「恋ヶ窪」の由来に
さて、しばらくして畠山重忠がこの地に凱旋しました。
夙妻に会うのを楽しみにして・・
ところが重忠は夙妻の悲報を知り、勝利を手にして帰ってきた武士とは思えないほどの悲嘆にくれた声で、泣き続けたのでした。
重忠の泣き声はあたりに響き渡り、それを聞いた人々がこの地を「恋ヶ窪」と呼ぶようになったのです。
畠山重忠のその後
畠山重忠はその後、鎌倉幕府の創業をささえた重臣として源頼朝に仕えます。
しかし重忠の息子に恨みを覚えた人物によって謀られ、だまし討ちに遭いこの世を去ります。
☆☆☆
「恋ヶ窪」の由来は、ロマンティックだけど悲しい恋の物語でした。
なお夙妻は「姿見の池」という池に身を投げて亡くなったという説もあります。
この池は一度埋め立てられましたが、現在では再び復元されているようです。