小野篁(おののたかむら)は平安時代に実在した人物で、官僚として活躍しただけでなく学者・歌人としても名を遺した人物です。

ところがそんな篁には、なぜか「地獄」と関りのある、不思議なエピソードや伝説が多く残されています。

この記事では、そんな「小野篁と地獄に関わる言い伝え」をまとめるとともに、

なぜ小野篁は地獄と関連付けられたのか

について考えてみたいと思います。

小野篁のプロフィール

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小野篁は、西暦802年に公卿・小野岑守(おののみねもり)の子として生まれました。

一説によれば、歌人の小野小町や能書家の小野道風の祖父であるとも言われています。

幼いころから学問に優れた篁は遣唐副使にも選ばれますが、二度の航海は失敗に終わり渡唐には至らず。

三度目は正使の藤原常嗣ともめて、嵯峨天皇に罪を問われて流刑にあいました。

しかしその後許され、嵯峨天皇のあと淳和、仁明天皇にも仕えました。

歌人としても優れた歌を遺し、小倉百人一首にも選ばれています。

篁の「地獄の審判」としてのエピソード

そんな小野篁には、なぜか

地獄の審判

閻魔大王の側近

であったという伝説が残されています。

冥界の入り口「六堂珍皇寺」から地獄へ出仕

小野篁は昼間は朝廷へ出仕する傍ら、夜は地獄の閻魔王庁へ出仕していたと言われています。

篁が地獄へ通うために通ったのが、京都の東区にいまも存在する六堂珍皇寺の裏庭にある井戸。

この井戸を、側に生えている高野槇の枝を伝わって地獄へと降りていったと言います。

そもそもこの六堂珍皇寺も小野篁によって建てられたと考えられていて、この寺の境内にある閻魔堂には閻魔像とともに小野篁自身と思われる像が立っています。

平安貴族が証言する、地獄の審判・小野篁

小野篁が地獄で審判をしている様子は、臨死状態から蘇った平安貴族たちによって証言されています。

西三条大臣・藤原良相の証言

良相は他界して、地獄で閻魔大王に罪を定められようとしていました。

ところがふと閻魔大王の隣をみると、そこには小野篁が立っています。

篁は閻魔大王に対して

「この人物は正直で良い人物だ。」

と進言しました。

閻魔は「篁の言うことなら」と、藤原良相を蘇らせたといいます。

藤原冬嗣の孫の証言

ある日小野篁は、藤原冬嗣の家へ遊びに行きました。

するとそこで突然、冬嗣の孫が気を失って倒れてしまいます。

なんとか息を吹き返した冬嗣の孫は、篁を見るや庭に降りて地面にひざまずき、篁を拝み始めました。

その理由を聞くと、

「気を失い地獄へ行ったとき、篁が閻魔大王の側近として特別な計らいで助けてくれた」

というのです。

なぜ小野篁は、「地獄の審判」と考えられたのか

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このような「小野篁が地獄の審判である」というエピソードは、今昔物語や江談抄などに残されています。

ではなぜ、小野篁はこれほどまでに地獄と結びつけられたのでしょうか?

同じく江談抄によれば、篁は感情の起伏が激しく、直情型の人間であったといいます。

また自信家で、自分が正しいと思ったことはなんでも通したということもあったとか。

そんな様子がまさに

「地獄の閻魔大王」

といった雰囲気だったことと

篁自身が閻魔堂や多くの地蔵・仏像を作った

というところから、人々が想像をふくらませたのかもしれません。

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