歴史に残る偉業を成し遂げるためには、誰もが尊敬する人物でなければいけないと思っていないでしょうか?
その思い込みに、偉人自らが「No.」と言っています。
その偉人とは野口英世。
この記事では、「偉人が必ずしも人格者でない」と自ら語る、野口英世のエピソードを紹介します。
野口英世が、自分の伝記に怒ったのはなぜ?
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私たちが野口英世に対して持つイメージは、
明治時代の貧しい農村に生まれ、幼いころに負った火傷の障害を負いながらも、不断の努力で勉学に励み、世界的に有名な医者になった
というものです。
ところがこの作られたイメージに、野口英世自身が「No.」と言っています。
野口英世が自身の業績について褒め讃えた伝記を読んだとき、怒りに震えてこう言ったと言います。
「人間はこんなに完璧なものではない。こんなのは作り話だ。」
野口英世は確かに、細菌学の研究に従事し歴史に名を遺しましたが、それは伝記で語り継がれるような
純粋な研究意欲
や
利他的な奉仕精神
によるものでは無いと、言っているのです。
野口英世は、「学問とは一種の投機事業だ」と語り、時代の流れや医学界の力関係を計算したうえでキャリアを選び、それが的を射て成功したのでした。
実は遊び放題の野口英世
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実際、野口英世は伝記で語られるように昼夜研究に明け暮れたわけではなく、女遊びやかなりの放蕩をしていました。
医学者として認められていた野口英世は、公費で海外研究員として派遣されたりしていましたが、たくさん支給された渡航費や給料は遊びで使い果たす始末。
生活費が足りなくなり友人や知人に借金をしても、返そうともしなかったようです。
「遊び人」のイメージを消すため改名
そんな野口英世は実は本名は、野口英世ではなく「野口清作」。
似たような名前の「野々口精作」という医学生が女遊びをしまくるという、坪内逍遥の小説に出会い、
「なんてことだ・・似たような名前で同じことをしている。
これでは自分のイメージが悪くなる。」
と考え、無理やり「野口英世」に改名したのです。
当時改名は許可されていなかったのですが、出身の村に「同姓同名の人物」を作り、これでは不便だからと無理やり押し通したのでした。
☆☆☆
高潔な人間として美化された「野口英世」よりも、破天荒でメチャクチャな野口英世の人生を知った方が、
「私もこれでいいんだ!」
と勇気がわいてきそうです。
子供たちにもぜひ教えてあげたいですね。
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