室町幕府を開いた足利尊氏は、どのような性格の武将だったのでしょうか?
実はトップに立つには少し優しすぎる性格だったようです。
そしてこの尊氏の性格が、後々起きる「応仁の乱」の遠い原因にもなっていきます。
トップに立つには甘すぎた性格の足利尊氏
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江戸幕府を開いた徳川家康は、「狸おやじ」と揶揄されるように「計算高く腹の底では何を考えているか分からない人物」だったようです。
でも200年以上続いた幕府の基盤を作った人物ですから、何を考えているか一般人に推測できないなんて当たり前。
狸おやじだったからこその偉業なのかもしれません。
一方、室町幕府を開いた足利尊氏は、征夷大将軍として天下を統一するには少し甘すぎる性格だったようです。
尊氏の甘さからきた数々の失策が、室町幕府の命運を左右することになっていきます。
南北朝の対立を招いた失策
足利尊氏の甘すぎる性格からきた失策の一つが、建武の新政に失敗して失脚した後醍醐天皇の処罰です。
島流しなどの極刑ではなく監視だけで済んだ後醍醐天皇は、三種の神器とともにまんまと京を脱出。
「我こそが正当な天皇」と宣言し、南北朝の対立を招いてしまいます。
気前よすぎて大名統制に失敗
また、それだけではありません。
当時、日本は66か国。
それらの領地を気前よく大名たちに分け与えてしまったので、将軍が統括できないほど強大な力を持った大名たちが出現することになってしまったのです。
中には全領地の六分の一を占めるほどの領地を持った大名まで現れます。
これが後々になって、足利将軍家の力が弱まった時、室町幕府のしくみを揺るがす原因になっていきます。
三代将軍義満以後、弱体化する室町幕府
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このようにいつひっくり返されてもおかしくない危険性を孕んでいた室町幕府は、剛腕だった三代将軍足利義満の死後、急激に弱体化していきます。
その後なんとか立て直しを図った将軍もいましたが、暗殺されて実現できず。
ついに九代将軍の座を巡って二大大名同士が対立し、その対立が日本中を巻き込んで戦国時代に突入していったのです。
これを応仁の乱と言いますが、最初の最初に戻ると、足利尊氏の読みの甘さが創り出した必然の混乱だとも言えるのではないでしょうか。
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