織田信長の義父で美濃のまむしと言われた「斎藤道三」。
その生涯について分かりやすくまとめました。
「斎藤道三」のプロフィール
斎藤道三(さいとうどうさん)(1494~1556)
出身:山城国(今の京都府南部)
油商人から戦国大名へ「国盗り」
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斎藤道三は少年時代、京の寺で法蓮坊を名乗っていたといいます。
しかし寺を出て大山崎で油商人となり、名前を山崎屋庄五郎に変えました。
その後美濃(岐阜県南部)へ移り、守護大名(※)土岐氏の守護代の家臣になります。
(※守護大名とは、室町幕府の役職のことで、その国の統治を任された人物のこと)
このとき名前を、庄五郎から西村勘九郎正利としました。
そして土岐氏の家督争いに乗じて権力者を次々に排していきます。
1538年 美濃守護代の斎藤利良の病死後、その名跡をついで斎藤新九郎利政と名乗り、ついに戦国大名へとなります。
この、一介の庶民から戦国大名へと成りあがった斎藤道三の生涯は
「国盗り物語」
として、後世に語り継がれています。
(ただし、語り継がれている物語は、道三の父と道三の生涯を併せたものだとする見方もあります。)
信長とのつながりと、実の息子に殺された最期
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タイトルにもある通り斎藤道三と言えば、娘の濃姫を織田信長へ嫁がせたことでも知られています。
濃姫が嫁ぐときに刀を渡し、
「万一の時はこれで信長を刺せ。」
と言ったところ、濃姫が
「この刀は父上を刺すことになるかもしれません。」
と答えたエピソードが有名です。
その道三が最期を迎えたのは、家督を子の義龍へ譲り既に隠居していたころ。
(この時に入道し、ようやく道三と名乗るようになった。)
もともと義龍よりも他の子供を愛した道三と、義龍との間には不和が生じていて、家督を譲ったことをきっかけに父子の間の争いが激化しました。
しかし道三は国盗りの経緯から味方するものがほとんどなく、濃姫の婿の信長が援軍を派遣した時には時すでに遅し。
濃姫では無かったものの、実の息子の手によって最期を迎えたのでした。
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