越後の竜と呼ばれた「上杉謙信」。
女性説もある程の、謎の多い武将ですが・・
そんな上杉謙信について、生涯をわかりやすくまとめました。
「上杉謙信」のプロフィール
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上杉謙信(1530-1578)
出身国:越後国(現在の新潟県)
父:越後の守護代・長尾為景(謙信が7才のときに他界)
幼名:虎千代(とらちよ)。
実兄との家督争い
父の死後寺に預けられていたが、家督を継いだ兄の晴景(はるかげ)が越後を支配しきれない様子を見て、景虎(かげとら)と名を変え越後支配にのりだした。
1548年、兄晴景と争って家督を継ぎ、越後春日山城城主となる。
その2年後、越後守護大名の上杉定実が死に、実質上の越後領主となりました。
関東管領となり「上杉」姓を与えられる
1561年、関東管領だった上杉憲政にたよられ小田原城の北条氏康を攻めます。
この功績により憲正より「上杉」姓が与えられ、関東管領としての職も譲り受けます。
(この時までは「長尾」姓でした)
さらに憲政の「政」の字を与えられて「上杉政虎(うえすぎまさとら)」と改名しました。
宿敵・武田信玄との戦いと「上杉謙信」への改名
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関東管領となったころからしきりに関東へ出陣するようになった謙信。
宿敵として知られる武田信玄との戦いも激化します。
(武田信玄に関する記事はこちら↓)
謙信と信玄との間で繰り広げられた数度の戦いを
「川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)」
と呼び、計5回12年ほどにも渡って行われましたが、最も激戦となったのは1561年謙信が関東管領になった年の合戦です。
また信玄が上洛軍をおこした際には、織田信長と同盟を結んで対抗しました。
(でもこんなにも敵対した間柄も、武田領内に塩が不足して困ったときに謙信が塩を送って助けた、という逸話が残されています。「敵に塩を送る」という言葉の由来となった出来事です。)
ちなみに謙信が「上杉謙信」と名乗ったのは1570年のこと。
「政虎」を名乗ったのちに「輝虎(てるとら・将軍足利義輝から輝の字を与えられる)」となり、最後にようやく「謙信」となりました。
(「謙信」は出家後に名乗る法名であり、出家に伴って名前を変えたと考えられます)
信玄死後、信長と争うも急死・・死因につきまとう「女性説」の謎
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信玄の死後、信長との同盟関係を破棄した謙信は、信長と争うようになります。
1577年には、信長方の能登七尾城を落とし、加賀で信長軍を破りました。
しかしいったん春日山城へ戻った謙信は、1578年再出陣の直前に倒れ、亡くなってしまいます。
記録によると死因は「大虫」とされていますが・・
「大虫」というのは婦人病を指していることから、「上杉謙信が女性である」と疑われる原因になっています。
そのほかにも、「謙信女性説」を裏付けるような史実があるようです。
・毎月10日前後に腹痛のため城にこもる(生理だった?)
・スペインのゴンザレスが国王に送った文書の記載には「景勝の叔母」とある
などなどです。
真相は分かりませんが、
女性だったかもしれない・・
というミステリアスな一面を持っていることも、上杉謙信が現代でも人気の武将である理由かもしれませんね!