戦国大名のさきがけとも言われる北条早雲。
北条早雲はその後5代に続く後北条氏の礎を築いた人物です。
そんな北条早雲の人生について、分かりやすく要約します。
北条早雲のプロフィール
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北条早雲(1432-1519)
(実名は伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)。出家して早雲庵宗端(そううんあんそうずい)と名乗る。自らは北条早雲とは名乗っていない。)
出身国:備中国(岡山県の西部)
父:伊勢盛貞(備中国高越山城主)
伊豆を奪い取り城主になる
初め北条早雲は、足利義視(あしかがよしみ)※に仕えていました。
(※足利義視は室町幕府6代将軍 足利義教の子)
しかし妹が嫁いでいた駿河の守護大名「今川義忠」の死後、家督争いを上手くおさめたことを評価され、駿河国に城(興国寺城 こうこくじじょう)を与えられます。
またちょうどそのころ、伊豆の要職についていた足利政知が死に、伊豆の支配が崩れます。
そこで北条早雲は伊豆に攻め込み、奪い取ることに成功しました。
そこに建てた城が韮山城(にらやまじょう)です。
分国法、検地を行い、戦国大名のさきがけに
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伊豆を奪った北条早雲は勢いに乗り、相模国へ進出します。
まずは1495年に小田原城の大森藤頼を。
1516年には相模国岡崎城・新井城の三浦氏を攻め、滅ぼします。
わずか20年ほどの間に、相模国ほとんどを手に入れてしまったのです。
しかしそんな戦の間も、早雲は領国の管理を怠りません。
家訓として知られる「早雲寺殿二十一箇条」を制定したり、検地を行うなど、領国の管理に力をいれました。
これらのことが、北条早雲が「戦国大名のさきがけ」と評価される理由です。
「後北条氏」とは
ちなみに、北条早雲から始まる北条氏5代は「後北条氏」と呼ばれ、鎌倉時代の執権 北条氏と区別されています。
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