戦国時代は天下取りの拠点として大きな役目を果たした「城」

しかし役目を果たしたその後は・・今も語り継がれている程の怨念を残す場合もあります。

ここではそんな「城」にまつわるとっても怖い話を紹介します!

戦国時代の越前丸岡城 築城で起こった悲劇

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城を建てる際、石垣が崩れるなど工事が難航することはしばしば起こりました。

当時の人びとにとってそれは神の怒り。

怒りを鎮めなければ無事に城を完成させることが出来ないと考えられていました。

その怒りを鎮めるために行われたのが、「人柱」です。

たいていは、若く美しい娘を生き埋めにし、神様に捧げられました。

その人柱にまつわる怖い話が、越前丸岡城で伝えられています。

越前丸岡城は1576年に柴田勝豊によって建てられた城です。

丸岡城は築城する際、天守台の石垣が何度も崩れ工事が進みませんでした。

そこで人柱として選ばれたのが、城下に住む片目の後家(未亡人)

後家は息子を士分に取り立ててもらうことを約束に、人柱となったのでした。

しかしその後、柴田勝豊は移封となり約束は果たされないままに。

それを悲しんだ後家が片目の大蛇になり、今も城にすんでいるといいます。

江戸時代の松江城築城で起こった悲劇

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二つ目は1611年に築城された松江城から。

こちらも丸岡城と同じように、天守台の石垣が何度も崩れ落ち、工事が進まなかったのです。

同じように人柱を埋めることにしましたが・・

こちらの場合は、盆踊りを踊っていた女性の中からひときわ踊りの上手な若い娘をさらい、

事情も知らされないまま人柱にされたのです。

その後城は完成しましたが、城主の父子が急死するという悲劇に見舞われます。

人々は娘の祟りをおそれて城に近づかなくなり、城下では盆踊りも踊られなくなりました。

この話はのちに小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって「人柱にされた娘」という物語にされています。

(松江城は、虚無僧が埋められたという伝説も残っています。)

ちなみに松江市では、いまでも盆踊りがされないそうです。

若い人の多くは、その理由もしらないのだとか・・

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