天下分け目の「関ヶ原の戦い」。

この合戦の発端を作ったのは「上杉景勝」です。

上杉謙信の後継ぎであり、関ヶ原の原因を作りながらも上杉家を存続させることが出来た上杉景勝という武将の生涯をわかりやすく要約してお伝えします。

「上杉景勝」関ヶ原の戦いのきっかけを作った人物

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上杉景勝(1555-1623)

出身国:越後国(今の新潟県)

☆☆☆

長尾政景の子として産まれましたが、上杉謙信の養子となり上杉家の家督を継ぎました。

その際、同じ養子だった景虎(かげとら)と争うことに。

景虎は北条氏からの養子だったため、それに対抗するために景勝は武田氏と手を結びます。

それがきっかけとなり景勝は武田勝頼の妹・菊姫を妻に迎え武田氏と姻戚関係を結ぶようになりました。

景勝は武田勝頼とともに織田家と争いますが、勝頼が戦いに敗れて自刃すると後ろ盾を無くしピンチとなります。

ところが本能寺の変で織田信長が死んだことで、危機を脱しました。

豊臣秀吉と和睦した景勝は、小田原征伐、朝鮮出兵などにも参加します。

そこでの働きのおかげで景勝は秀吉に信頼され、五大老(豊臣政権で政務をとった有力者5人)という地位にまで登りました。

徳川家康につきつけた「直江状」

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豊臣秀吉の死後。

景勝と同じ五大老の一人であった徳川家康が徐々に力を増していくなか、景勝は家康から「叛意あり」という疑いをかけられます。

というのも景勝は、家臣の直江兼続に命じて新しい城を築城したりと、軍事力を強化していたからです。

また、家康と景勝の関係修復に努めていた人物も上杉家から追放されます。

そこで景勝は、家康から「叛意が無ければ上洛しろ」と命令を受けるのですが・・

反対に「直江状(家臣の直江兼続によって出された文書)」によって宣戦布告とも取れる返事をします。

そこで徳川家康は景勝を討ちに、居城のある会津へ向けて出陣することになりました(会津征伐)。

ところがこのすきに、石田三成が関ヶ原で挙兵したため、家康は会津を攻めずに代わりに西へ向かうこととなりました。

(景勝は光成と家康を謀ったとも言われています)

景勝は伊達氏・最上氏に包囲されていたため、家康不在の関東に挙兵することが出来ず、光成が敗れた後で家康に降伏しました。

景勝は会津120万石を没収され、出羽米沢30万石に減らされました。

☆☆☆

関ヶ原の合戦のきっかけを作った上杉景勝ですが、移封とはなったものの許されています。

それは、「景勝に本当に叛意があったか判別できない」ため。

直江状には明確に家康に対する戦意が読み取れないため、「家康の早合点だったのではないか」と考える武将もいたからです。

また景勝の秀吉への忠誠心は厚く、その心を汲んだという解釈もあります。

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