駿河の武将「今川義元」の人生について、わかりやすく要約します!

今川義元のプロフィール

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今川義元(いまがわよしもと)(1519~1560)

出身:駿河国(今の静岡県中部、北東部)

父:今川氏親(いまがわうじちか)

今川氏9代目を継いだ義元

今川義元は、足利将軍家の流れを汲んだ名門、今川家の9代目になります。

(Wikipediaには11代目とありますが、歴史文献では9代目とあります。)

兄が2人いるため善徳寺という寺に入れられていましたが、その2人の兄が死去したために家督継承権が回ってきました。

ちなみに善徳寺で義元を教育したのが、太原雪斎という僧侶。

のちに人質として駿府に来た徳川家康を教育することとなった人物です。

甲斐(今の山梨県)の武田信玄、相模(今の神奈川県)の北条氏康と三国同盟を結び、それまでの駿河・遠江(今の静岡県西部)から三河・尾張の一部(今の愛知県中東部まで)の一部まで領地を大きく拡大しました。

また義元の父は自分の領地を支配するための「分国法」を初めて制定した人物。(「今川仮名目録」)

義元はそれに追加する事項を制定しました。

今川義元の最期と、一族の末路

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三国同盟で拡大した勢力をさらに拡大するために、尾張国(今の愛知県西部)へ侵略を始めたのが1560年。

桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に遭い、死去します。

この時織田勢は今川勢の1/10ほどの勢力しか無かったと言います。

義元の死後、息子の氏真が家督を継ぎますが義元ほどの力はありませんでした。

人質だった徳川家康が解放されたのをはじめとし、家臣の離反が相次ぎ、領地は衰退。

その後氏真は徳川家康の庇護の下で生活しましたが、戦国武将としての今川家は滅亡してしまいました。