豊臣家の五大老をつとめた武将「宇喜多秀家」。
秀吉に愛されながら、最後は流刑地・八丈島でその生涯を終えます。
そんな宇喜多秀家の生涯について、分かりやすく要約しました。
宇喜多秀家のプロフィール
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宇喜多秀家(1573-1655)
出身国:備前国(現在の岡山県)
父:宇喜多直家
幼くして家督を継ぎ、秀吉の中国遠征に参加
秀家の父・直家は織田家に仕えていましたが、秀家がまだ幼いころ(1581年)に死去し、家督を継ぎます。
織田信長の命で羽柴秀吉の中国遠征に参加した際は、叔父の宇喜多忠家が補佐しました。
中国遠征のさなか、1582年信長が本能寺の変で急死すると秀吉は毛利氏と和睦を結びますが、それにより宇喜多氏の領土は備前・美作・備中の一部へと拡大されます。
秀吉の寵愛を受け五大老に
宇喜多秀家と言えば、実は秀吉の寵愛を受けた武将として有名です。
秀家の「秀」の字は、秀吉から与えられたものでした。
そして五大老(豊臣政権で政務をとる有力武将5名)の中にも、最年少で選ばれています。
その寵愛の理由は定かではありませんが、
「死の直前、秀家の父直家が秀吉に後見をお願いしたから」
「秀家の実母が秀吉の側室になったから」
というものがあります。
色々な縁があったのかもしれません。
秀家も、秀吉の養女・豪姫が正室になっています。
ただし秀吉からの寵愛は名ばかりで無く、戦でも重要な働きをし、小牧・長久手の戦いや朝鮮出兵でも活躍しました。
秀吉の死後衰える宇喜多家・・関ヶ原で西軍主力となるも敗北
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順調だった秀家の人生も、秀吉の死後、陰りが見え始めます。
原因不明の家内騒動が起こり、主要な家臣団が宇喜多家から出奔してしまったのです。
宇喜多家は軍事的・政治的に弱体化していきます。
また豊臣家内も、派閥抗争やそれに乗じた徳川家康の台頭など、一触即発の状態に。
ついに1600年。
家康が上杉景勝を討ちに会津へ向かうと、秀家はそのタイミングで石田三成とともに打倒家康に挙兵しました。
秀家は対家康の主力を担い東軍の福島正則と戦います。
しかし味方であるはずだった小早川秀秋の裏切りで宇喜多隊は壊滅しました。
薩摩へ落ち延びるも捕まり八丈島へ。長寿を全うして死去
関ヶ原で敗北した後も流人となって逃げた秀家。
薩摩へ島津家を頼って逃げますが、ついに捕まります。
縁戚者の嘆願によって死刑は免れ、伊豆の八丈島へ流刑となりました。
流刑地・八丈島は不便で、日々の食事にも困っていたようです。
また、すげやかやなどを編んで生活していたそうです。
しかしそれほどの困窮にもかかわらず、1616年に流刑が解かれ大名復帰の勧めを受けたときにも、それを断って八丈島に残ったといます。
秀吉の寵愛を受けただけあって、その忠誠心は人一倍だったのかもしれません。
秀家は長寿を全うし、84才まで生きました。
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