関ヶ原の戦いで西軍側から東軍側へ寝返り、東軍徳川家康の勝利のきっかけを作った人物「小早川秀秋」。

しかし関ヶ原のあとは、自分の裏切りのために死んだ大谷刑部の亡霊に悩まされていたといいます。

そんな小早川秀秋はなぜ裏切り行為を行ってしまったのでしょうか。

人物像から考えてみました。

小早川秀秋のプロフィール

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小早川秀秋(1582-1602)

父:木下家定

父の木下家定は秀吉の妻・お禰(北政所)の兄だった。

秀吉に子供がいなかった頃に秀吉の養子となったが、後に小早川家の養子となる。

小早川秀秋の人物像は?

心優しいお坊ちゃんが一転、酒に溺れて道を踏み外していく

幼少のころ、小早川秀秋は蹴鞠や舞などの才能に溢れたそうです。

また貧しい人々に施しを行うなど、優しい一面も語り継がれています。

ところがお酒の味を覚えると一変してしまいます。

夜な夜な飲み明かしては贅沢な生活を送り、各方面に多額の借金をしていたようです。

豊臣家から小早川家へ養子に。「大将の器にあらず」の評価、正室とも離縁

また先にも書いた通り、小早川秀秋ははじめ秀吉の養子でした。

ところが秀吉に子が生まれると、邪魔にされ小早川家へ養子に出されます。

その後も小田原征伐や朝鮮出兵に参加するのですが、そこでの働きから「大将の器にあらず」という評価を石田三成によってくだされ、大幅な減封を行われました。

家庭内も上手くいっておらず、別の女性との間に子供が出来たことがきっかけで、正室である毛利家の古満姫と離縁しています。

総合的な評価は・・「思慮が浅く行き当たりばったり」?

これらのエピソードから考えると、深く物事を考えるというよりも短絡的に行動するイメージの人物に思われます。

豊臣家から小早川家へ養子へ出されてしまう、という経験は同情を誘いますが、本人がそれについて憤慨していたということは無いそうです。

関ヶ原での裏切りは「なんとなく!?」だからこそ、罪の意識にとらわれたのか・・

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関ヶ原の戦いで、土壇場になって西軍から東軍へ寝返った小早川秀秋。

その動機を考えると、

子供が出来たら邪魔にして養子へと追い出した豊臣家

「大将の器にあらず」と減封を行った石田三成

などへの恨みがあったように解釈出来なくはありません。

でも、飲み明かして借金をしまくったり、別の女性に手を出して良家出身の正室を追い出してしまうなど、自分の行動に思慮が及ばないイメージが強いことから、深く考えての行動ではなく

「なんとなく」

だったのではないかとも思います。

秀秋は関ヶ原の後わずか2年で死に、跡継ぎが無かったために改易となっています。

その後まもなく亡くなりますが、死因はアルコールの過剰摂取によるものとされています。

「なんとなく」してしまった自分の寝返りが原因で大谷刑部を自害に追いやったことが罪の意識となって、ますます酒に溺れたのかもしれません。

人々はこの早死にを「大谷刑部の祟り」と言ったそうです。

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