豊臣秀吉の正室、「おね(禰々、寧々)」。
秀吉の最高の幸運は、おねと結婚できたことじゃないかなぁと思うことがあります。
それはおねが美しいだけじゃなく、賢くて強い女性だったからです。
おねを正室にできたのは、豊臣秀吉にとって最高の出来事
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おねは織田信長の家臣・杉原定利のむすめとして産まれ、その後、織田足軽頭である浅野長勝の養女となりました。
おねはとても可愛らしかったので、武将たちの憧れだったようです。
でもおねは、「結婚するなら木下藤吉郎(豊臣秀吉)と」と心に決めていたのだとか。
前田利家がおねとの結婚を申し入れに行ったとき、おねが「私は藤吉郎様のほうが好き」と断ったというエピソードが残っています。
そんなおねですが、かわいいだけでは無く秀吉の天下統一を内助の功で助ける才覚も持っていました。
秀吉が長浜城主となったあと、戦などで不在の時に政務を代行したのはおねです。
秀吉が関白になったあとは、多忙な秀吉に代わり朝廷や公家との社交を一手に引き受けました。
(このころおねも、北政所という名前を与えられた)
家中のことや朝廷のことは、秀吉が天下を治めるためにしっかりとおさえておきたいところ。
そこを問題なく任せられるおねが妻だったからこそ、秀吉は天下人まで上り詰められたのだと思います。
また子供こそいなかったおねですが、姑(秀吉の母)と養子を自分の家族のように大切にしたという、温かみのある側面も語り継がれています。
秀吉の死後も豊臣家を守るおね
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正室である「おね」は、側室淀殿は敵対していた
という解釈があります。
それは、秀吉の死後の関ヶ原の合戦で、おねが東軍・徳川家康の側につき、西軍・石田三成と秀頼(秀吉の子)を産んだ淀殿(つまり豊臣側)と対立したと見られているから。
でも、豊臣家を大切に守ってきたおねが「側室との確執」という理由で豊臣家と敵対するとは考えにくいですよね。
「天下を誰が治めるか」というより、あくまでも豊臣家の存続のために、家康側で尽力したと思われます。
ちなみにおねは秀吉の死後、関ヶ原の合戦のあとも長く生き、1624年に亡くなります。
(生まれた年に諸説あるので、享年は76、77、83など言われています。)
晩年は落飾し高台院と名乗り、秀吉の冥福を祈るために家康の後援のもとで高台寺を建てました。
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