中国地方を統一し治めた毛利元就ですが、そのきっかけを作ったのは陶晴賢(すえはるかた)という人物です。

陶晴賢が主へ謀反を行ったことで、毛利元就が中国統一する足がかりが出来ました。

この記事では陶晴賢の起こした謀反と毛利元就の中国統一との関係について解説します。

陶晴賢が謀反を起こしたのはなぜ?

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陶晴賢は、周防国(現在の山口県)を治める戦国大名・大内義隆に仕えていました。

大内氏の勢力は、周防、長門、安芸、石見、備後、筑前、豊前など。

現在の中国地方と九州地方の一部を任される守護職も兼ねていました。

とても大きな勢力です。

一方毛利元就は、安芸国を治める戦国大名に過ぎません。

そんな毛利氏が中国地方を治めるには、この大内氏をもちろん倒さねばなりませんが、力の差は歴然でした。

ところが毛利元就へチャンスをもたらす出来事が起こりました。

それが、陶晴賢による大内義隆への謀反です。

大内義隆は公家に憧れ、京風の文化を取り入れたり贅沢をしたり。

またキリスト教の布教を許したりもしていました。

そんな姿が、家臣の陶晴賢にとっては「戦国武将らしからぬ」とうつり、謀反という行動をとらせたのでした。

そんなつもりじゃ無かったのに・・大内氏が弱体し、毛利元就が中国統一へ

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ところが謀反という行動をとったものの、陶晴賢には「大内氏を滅亡させよう。とって代わろう。」という気はありませんでした。

単に、大内義隆の戦国武将らしからぬ行いを嘆き、よりよい人物に大内家の家督を譲らせようとしただけだったのです。

しかしその行動は目論見どおりに行かず、義隆の死後大内氏は弱体化します。

その弱体化したスキをついたのが、毛利元就でした。

大内氏は毛利元就に敗れてしまいます。

そしてその後、さらに元就は中国地方の大勢力・尼子氏を破り、中国地方統一を果たしたのでした。

☆☆☆

晴賢が謀反を起こしていなければ、毛利氏は中国地方を統一せず、また幕末まで続く長州藩も存在せず・・

ひいては明治以降の日本の歴史も変わっていたかもしれません。

あくまでも「かも」ですが。

また余談ですが、実は陶晴賢が謀反を起こしたのは「義隆との痴情のもつれ」という説もあります。

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