昨今のワイドショーを賑わせている不倫問題。
戦国時代はどのようにこの問題を考えていたのでしょうか?
性には奔放な時代だと思いきや、意外なほどに厳しく処分されていたようです!
室町時代までの不倫問題の扱い方
Sponsored Link
室町時代以前、不倫問題をどのように裁くかについて決められた法には鎌倉時代に幕府が定めた
「御成敗式目」
があったといいます。
御成敗式目の中では、不倫を「密懐(びつかい)」と呼び、不倫をした男女ともに
財産を半分没収
財産が無い場合は流刑
と定められていました。
つまり不倫には「罰金刑」が課せられていたわけです。
応仁の乱以降ごろから「不倫は死罪」という考え方に
ところが応仁の乱が収束したころから、この考え方が変わってきたといいます。
このころある酒屋の主人が妻の不倫相手の武士を斬り殺すという事件が起こり、相手方の武士の主家が酒屋の主人に対して敵討ちに名乗り出るという揉め事が起こりました。
この揉め事に対して幕府が下した対応は、「喧嘩両成敗」として「酒屋も自分の妻も殺すべし」というものでした。
この対応が戦国武士たちが作った「分国法」の基本となっていき、
「不倫した男女は死罪」
という扱いが一般的になったのだといいます。
「不倫を死罪」と明記した分国法
Sponsored Link
全国に「不倫を死罪」とした分国法は多くあると言いますが、私が調べられたのは以下のものでした。
伊達氏の「塵芥集」
吉川氏の「吉川氏法度」
近江六角家の「六角氏式目」
長宗我部氏の「長宗我部元親百箇条」
などです。
特に吉川氏の吉川氏法度では、「現場を押さえ、その場で討ち果たせ」という指示まであるほどです。
妻は夫の所有物
戦国時代の不倫がここまでの大罪として扱われるようになったのは、家父長制への移行が背景にあります。
男たちは自分の妻を自分の持ち物として、家の奥へ閉じ込めるようになっていきました。
妻たちのことを「奥様」と呼ぶようになったのも、
「家の奥の方の部屋にいるから」
ということなんだそうです。
Sponsored Link