「小野お通(おののおつう)」とは、浄瑠璃の祖と呼ばれる戦国時代の才女です。
男でも生き抜くのが難しい時代に、織田から徳川へと自身の才能を武器に渡り歩きました。
そんな小野お通の生涯とはどのようなものだったのでしょうか?
分かりやすくまとめてみました!
小野お通の生涯
織田家の家臣の子として生まれる
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お通は通説では、1568年に美濃国に生まれたとされています。
父親は淀殿に仕えた侍とも、織田信長の家臣の一人とも伝えられていますが、定かではありません。
またその父親は早くに戦死し、それから織田信長の庇護下で育てられたという説もあります。
主君の命で浄瑠璃の創作を始める
やがて文化の才能を見出されたお通は、主君に命じられて当時はやり始めていた「浄瑠璃」の創作を始めました。
その時の主君とは、信長とも秀吉とも、秀吉の正室のおねとも考えられています。
お通が創作したと伝えられている浄瑠璃は、それまで琵琶で伝えられていた、源義経と浄瑠璃姫の恋物語を改作したもの。
その作品は「十二段草子」と呼ばれ、大坂城で披露した際に淀殿が絶賛したことから、お通の名が一気に広まったと言われています。
この活躍から、お通は「浄瑠璃の祖」とも呼ばれるようになりました。
・・ただし、近年の研究では、お通が名作「十二段草子の作者である」という説には疑問が抱かれるようになっています。
家康に仕えた関ケ原以降
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このように秀吉に仕えていたお通ですが、驚くべきことに関ケ原の合戦以降は徳川家康に仕えたと考えられています。
大坂夏の陣にて、秀吉の息子・豊臣秀頼の正室で家康の娘・千姫を大坂城から脱出させる手引きをしたのは、お通だとも言われています。
そしてその後は、江戸幕府二代目将軍の徳川秀忠の娘・和子の付き人になったという伝説もあります。
真田信之との絆
以上の情報はほとんどが伝説の域を超えないのですが、お通に関することで唯一事実として考えられることが信州上田の武将「真田信之」との関係です。
真田家の中で唯一、関ケ原の東軍に味方した真田信之は、お通と頻繁にやりとりをし、その書状が現在まで遺されています。
またお通の娘は信之の次男・信政の側室になっています。
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戦国の世を、織田・豊臣・徳川と渡り歩くことが出来た人物はそうはいないのではないでしょうか。
それを許したのは、戦国時代が意外にも、文化や芸術を尊重された時代だったからかもしれません。
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