古代日本に大陸から渡来し、天皇に仕えた「秦(はた)氏」。
彼らは日本に高度な技術力を持ち込みますが、どこから何故やってきたのでしょうか?
久保有政氏の書いた「日本の中のユダヤ文化」を参照しながら説明します!
秦氏のふるさと「弓月(クンユエ)」
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秦氏はもともと、中央アジアに位置するキリスト教国の「弓月(クンユエ)」に住んでいました。
シルクロードの北方ルート上に属し、現在のカザスフタンの辺りにあったといいます。
ところがこのあたりの民族は中国に征服され、次々と使役に駆り出されるようになりました。
それに耐えかねて故郷を脱出し、朝鮮半島へ逃げてきた民族の中に、秦氏がいました。
そして「日本書紀」によれば、朝鮮半島で苦境に立たされた彼らを受け入れたのが、日本の応神天皇だったと言われています。
秦氏は二万人の大集団を引き連れて日本に移住し、助けてくれた天皇のために優れた技術や文明を活かしたそうです。
「八幡(はちまん)神社」は秦氏の建てた神社
移住した秦氏は技術を日本へ持ち込むと同時にたくさんの神社を日本に建てました。
それらの神社は「八幡(はちまん)神社」と呼ばれ、今でも信仰が続いています。
私たちの近所でも、簡単に見つけることが出来ますよね。
ところがこの神社、どうやら日本古来の神を祀る意図で建てられた訳ではないようです。
八幡さんはキリスト教信仰の神社だった!?
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この神社、実は「キリスト教の神 ヤハウェ」を祀っているのではないかと考えられています。
というのも、八幡信仰が始まった伝説が聖書の伝説そっくりだから。
それに、「八幡」の読み方は現代では「はちまん」が一般的ですが、本来は「ヤハタ」だったのです。
「ヤハタ」は確かに、「ヤハウェ」にそっくりですよね。
(もしくは「やはた」はヘブライ語の「ヤハ・ハタ=秦氏の神」という意味という説もある)
その八幡信仰の伝説は
大昔、宇佐というところの御澄池に八幡の神が現れて言った。
「われこそはヤハタの神である。我がために薦草で方舟の枕を作り、ご神体とせよ。」
というもの。
一方聖書では、幼いモーセがナイル川の葦の中に、葦で作られた方舟に寝かせられていた、という記述があります。
秦氏はキリスト教国から渡来していますし、
「八幡」は「キリスト教神の神社だった」
としても、それ程不思議ではありません。
秦氏はイスラエル民族か?
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秦氏が大陸の中央アジアから、4世紀ごろ渡来してきたということは先に書きました。
ところが
「それ以前の時代には秦氏はイスラエル民族の一部族(今のユダヤ人)で、イスラエルから移住してきたのではないか」
と考える説があります。
というのも、秦氏が住んでいた「弓月クンユエ」はシルクロードの北方ルート上にあるから。
このルートは西にさかのぼると、イスラエル民族が一時住んでいたクリミア半島につながるのです。
さらに言えば、秦氏が渡来してきたのはもっと以前で、「やまと」という土地の名付けに関わっていたと考えられる説もあります。
それは彼らの故郷「弓月」に「ヤマトゥ」という地名があるからですが・・
これが正しければ秦氏は日本の建国段階から政治中枢に関わっていたと言えます。
なぜならご存知のとおり、古代日本の呼び方は「やまと(和、倭、大和)」だったからです。