日本史史上、最強の怨霊といえば崇徳上皇が挙げられます。
崇徳上皇はその呪いの力で都に災厄をもたらし、怨霊は明治になるまで鎮まることが無かったと言われています。
ではなぜ、崇徳上皇はそのような呪いを抱くまでになったのでしょうか?
この記事では、崇徳上皇が呪いを抱くようになるまでの経緯についてまとめてみました。
母と祖父の不倫の子「崇徳上皇」
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崇徳上皇は1119年に生まれました。
父は鳥羽天皇、母は藤原璋子です。
しかし、本当の父親は藤原璋子の愛人で、鳥羽上皇の父親の白河法皇だったと言われています。
白河法皇は藤原璋子を養女にし、幼いころから寵愛していました。
2人の噂は都中の知るところであり、璋子は愛人の白河法皇の孫である鳥羽天皇に嫁ぐしかありません。
それでも鳥羽天皇に嫁ぎながら璋子は白河法皇との関係を続け、妊娠。
そのことは父親の鳥羽天皇も知るところとなるのです。
祖父の後押しで天皇となるも、父に憎まれる
そんな崇徳は、祖父の白河法皇に後押しされ、父の鳥羽天皇を追い立てて幼くして天皇に即位します。
無理やり譲位に追い込まれた父の鳥羽法皇は、崇徳天皇を激しく憎むように。
そして白河法皇が亡くなると、今度は崇徳天皇を無理やり譲位に追い込み、崇徳の弟の近衛、後白河が次々と天皇になっていきます。
憎しみが憎しみをよび、崇徳 v.s. 後白河の兄弟争乱に
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自分を譲位に追い込んだ父や兄弟を憎んだ崇徳上皇は、平忠正や源義家らを恃んで挙兵し、後白河天皇らに戦いを挑みます。
しかし崇徳上皇はあえなく敗れ、平忠正や源義家は斬首。
崇徳上皇は讃岐に流されてしまいます。
配流先で「呪い」を疑われ激怒。実際に呪いをかける
流された崇徳上皇は、讃岐の地で反省をし、死者を弔うために膨大な量の写経を行ったといいます。
しかしその写経本を都の寺へ納めるように送った所、「呪いが込められている」として送り返されてしまいました。
激怒した崇徳上皇はこの写経に実際に呪いをかけるべく
「この教文を魔道に回向する」
と言って舌を噛み切り、滴る血でその教文に呪詛の言葉を書き綴ります。
崇徳上皇は1164年に亡くなり荼毘に伏せられますが、その煙は都へとなびいていったと言います。
崇徳上皇呪いが、都に現れる
しばらくして、崇徳上皇の愛人だった女性の家に、怪しい光が次々と飛来しました。
そしてそれをきっかけにして、朝廷や都に次々と災難が訪れるようになります。
二条天皇の崩御
疱瘡の大流行
都を襲う大火
後鳥羽上皇の島流し
など、崇徳上皇の怨霊は鎮まるところを知りませんでした。
明治になり、ようやく鎮まる崇徳上皇の呪い
そんな崇徳上皇の怨霊がようやく鎮まったのは、明治になってからのこと。
讃岐から都へ崇徳上皇の神霊を移し、上皇を祀る白峰神社を建立したことで、ようやく呪いが収まったといいます。
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