奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)は、幕末に薩摩藩士が英国人を殺傷した「生麦事件」の実行者として知られています。
この事件は、藩だけでなく国同士を巻き込んだ騒動になってしまうのですが、実行者の喜左衛門はどうなったのでしょうか?
なんと反省するあまり、とんでもない行動に出てしまったのです。
奈良原喜左衛門ら薩摩藩士による生麦事件の経緯
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生麦事件が起こったのは、1862年のことでした。
江戸から京都へ帰る途中だった薩摩藩の・島津久光一行は、生麦村(現在の横浜市鶴見区)に差し掛かった時に馬に乗ったイギリス人の一行と出会います。
イギリス人の一行はこの行列が何なのかが理解できず、馬で行列を乱してしまいました。
そして不幸にも「引き返そう」と馬を巡らせたとき、薩摩藩士たちに斬りかかられてしまうのです。
その時最初に斬りかかったのが、奈良原喜左衛門でした。
賠償金を求めて英国艦隊が薩摩を来襲
4人のイギリス人のうち、1名が死亡2名が重傷をおったと言われる生麦事件。
これには幕府がイギリスへ、他の事件と合わせて11万ポンドを支払い解決したかに見えました。
しかし翌年イギリス艦隊が薩摩藩を来襲、遺族や負傷者への慰謝料を要求します。
薩摩藩はこの要求に応えず、互いに発砲し合う事態になりました(薩英戦争)。
反省のあまり、喜左衛門がとった驚きの行動
スイカ売りに化けて英国艦隊に斬りこみ!?
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さて、生麦事件の当事者の奈良原喜左衛門は、やはり藩へ大きな迷惑をかけたという心苦しさもあったのでしょうか?
なんと自分の謝罪の意を示そうと、一計を案じます。
それが
スイカ売りに化けて英国艦に斬りこもう
というものでした。
最後に艦隊に斬りこんで立派に討ち死にすれば、藩主や久光へ謝罪できると思ったのでしょう。
「町民が好奇心にかられたことにすれば、近づいても殺されることはないだろう」
と考えたのです。
(何も知らずに近づいた民間の英国人を、喜左衛門は斬り捨てているという矛盾)
しかし意を決して実行したものの、あっさりとバレてしまい失敗に終わったのだとか。
一説によれば、喜左衛門に賛同した大勢の藩士たちが同行したからバレたのでは?と考えられています。
喜左衛門一人がスイカ売りに化けても、武士に囲まれてたら確かにおかしいですよね。
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