江戸城の無血開城は、薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟によるものだと広く知られています。
しかしその実現の裏には、山岡鉄舟という人物の尽力がありました。
この記事では、山岡鉄舟がどのような役割を果たし、江戸城無血開城に至ったかを解説します。
迫る江戸総攻撃
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1868年3月、新政府軍は江戸を総攻撃すべく、五万の大軍を江戸に向けていました。
新政府軍を前に将軍・徳川慶喜は徹底恭順の意思を表明。
江戸城を出て上野の寛永寺で謹慎を始めます。
慶喜のこの行動は江戸を内戦状態にしないためのものでしたが、それでも新政府軍には攻撃中止の意思はありませんでした。
この危機を救うべく奔走したのが、勝海舟でした。
最後の協議をかけて山岡鉄舟を派遣
勝海舟は江戸総攻撃を回避すべく、西郷隆盛に交渉のための使者を送ります。
勝が使者に選んだのが、山岡鉄舟でした。
命の保証が無い敵陣に乗り込んできた鉄舟の姿に感心し、西郷隆盛は鉄舟と会見に臨みます。
西郷を動かした山岡鉄舟
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西郷隆盛は山岡鉄舟が持ち掛けた江戸総攻撃中止の条件として、江戸城の明け渡しや幕府軍の武装解除などを提示します。
その条件の中に
慶喜の身柄を備前に預ける
というものがありました。
しかし鉄舟は、戦争回避に尽くしながらも主君の引き渡しには断固として反対。
この毅然とした態度が逆に西郷をさらに感心させ、勝海舟との会談を実現します。
西郷と勝の会見で江戸城無血開城実現
初め徳川家の取り潰し・慶喜の処刑を主張していた西郷隆盛でしたが、山岡鉄舟との会見で態度を軟化。
実現した勝海舟との会見で慶喜の謝罪を受け入れることにし、江戸総攻撃も中止となります。
こうして日本で大きな内戦が起こることは回避され、血を流すことなしに近代国家の開設が始まったのです。
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