最近では鳴りを潜めた女帝問題ですが、女性天皇はいつから存在していないのでしょうか?
調べてみると、それほど遠くない過去に女性の天皇がいたことが分かります。
その天皇の名は「後桜町天皇」。
この記事では、現在にいたるまでの最後の女帝である「後桜町天皇」について調べてみました。
父帝は「聖徳太子の再来」と言われた「桜町天皇」
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後桜町天皇は、1740年、桜町天皇の第二皇女として生まれました。
生母は関白・二条吉忠の娘で青綺門院です。
幼いころは智子(さとこ)と呼ばれていました。
第一皇女である姉と、異母弟である八穂宮がいましたが、姉は10歳でこの世を去っています。
父帝の桜町天皇はちょうど8代将軍・徳川吉宗のあたりで即位し、幕府との友好な関係を保ちながら政治をするなど「聖徳太子の再来」と評価されるほどの天皇でした。
ところがこの桜町天皇は、八穂宮へ位を譲り(桃園天皇)院政を始めた矢先に、31歳の若さで急死してしまいます。
桃園天皇がまだ10歳のことでした。
弟・桃園天皇の急死で後桜町天皇が中継ぎの天皇に
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幼い桃園天皇は、側近たちにたくさんの教育を受けながら成長し、大変勉強熱心に育っていきますが、このために大きな問題が起こりました。
それは「尊王論」を唱える学者たちと強いつながりが出来てしまったことです。
「尊王論」とは、「家臣は大名を、大名は将軍を、将軍は天皇を尊敬すべし」とする考え方で、この考え方が朝廷に広まることは討幕勢力が生まれる危険性を孕んでいました。
しかしこの時の尊王論の盛り上がりは、中心的な存在であった武内式部という人物の処罰(宝暦事件)によりいったん収束しますが、このように落ち着かない朝廷内の情勢の中で、さらに悪いことに桃園天皇が22歳という若さで亡くなってしまいます。
後に残されたのは、まだ5歳の皇太子・英仁親王でした。
英仁親王は天皇になるには幼すぎ、なおかつ宝暦事件と言う幕府との関係が危ぶまれる事件が起こったばかり。
そこで朝廷は先例に基づき、
「同父の子ども(女性を含む)による中継ぎとしての天皇即位」
を実行しました。
中継ぎの天皇として選ばれたのが、もちろん「後桜町天皇」です。
23歳の後桜町天皇は、桃園天皇の子・英仁親王が成人するまでの間、天皇の位に就くことになりました。
「国母」として晩年まで政治を後見
英仁親王が13歳になると、後桜町天皇は位を譲り上皇になりました(英仁親王は後桃園天皇)。
ところが後桃園天皇は皇子を持たないまま父と同じ22歳で死去。
傍流である閑院宮典仁親王の第6子・兼仁親王が即位します(光格天皇)。
このような状況の中で天皇を補佐したのは、やはり後桜町上皇でした。
このことから、後桜町上皇を「国母」と呼ぶことがあります。
長い間天皇を支えた後桜町上皇は、74歳まで生きました。
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