初代江戸幕府将軍・徳川家康の陰に隠れて、あまりその功績を語られない「徳川秀忠」。
たしかに地味な存在かもしれませんが、彼が2代目の将軍だったからこそ、太平の世が260年存続したともいえます。
徳川秀忠が2代目将軍に選ばれたことには、理由があるのです。
3男・秀忠はどうして徳川2代目将軍に選ばれたのか?
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不遇の長男・次男の存在
2代目将軍徳川秀忠は、家康の3男として産まれます。
長男信康は、家康の正室・築山御前が家康を裏切り武田と内通しようとした罪の責任を取り切腹。
また次男の秀康は築山御前の奥女中を母として産まれたため、
築山御前の怒りを買うことを恐れて秀吉のもとへ養子い出されました。
そのため、秀忠は3男でありながら、徳川家の後継者となります。
勇猛な弟たちに劣る武将としての実力・・それなのに家康に選ばれたのは?
兄たちの不遇によって後継者となった秀忠。
しかし弟たちと比べると、その勇猛さには欠ける点があったようです。
武勇としてはすぐ下の弟・忠吉の方が評価が高い。
伊達政宗のところに婿入りした忠輝も、野心では勝っています。
秀忠は関ヶ原の合戦の日も、名だたる大名に遅れをとっています。
でも家康は、「秀忠こそ2代目だ」と決めていました。
それは2代目将軍の役割が「戦うこと」ではなく「平和を定着させること」にあったからです。
「せっかく終わらせた戦乱の世に、再び戻してはいけない」
という思いから、武勇の面では劣っていても父の教えをきちんと聞き、
江戸幕府の基盤を築くことが出来る秀忠を後継者に選んだのです。
「守成の時代」の君主・徳川秀忠の功績
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秀忠が期待された君主の在り方。
それは
「守成の君主」
です。
「守成」とは「平和な世を守ること」です。
そのため、秀忠の役目は「争いの種を摘むこと」「争いの種が生まれないようにすること」でした。
その一環として武家の統制については「武家諸法度」
朝廷や公家の統制については「禁中並公家諸法度」
を制定します。
内紛を未然に防ぐために、諸大名の配置にも気を配りました。
これらは「締め付け」ともとられますが、その後260年に渡り戦いのない平和な時代が続いたことは、その後の日本への大きな貢献となります。
平和な世の中だからこそ文化や工業が栄えたのです。
☆☆☆
戦乱の世が続いていたのなら、もしかしたら秀忠は跡継ぎに選ばれていなかったかもしれません。
その時代その時代で、必要とされる才能は変わってくるのですね。
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