3代目将軍「徳川家光」と5代目将軍「徳川綱吉」は、よく知られた将軍です。
ところがその間に挟まれた4代目将軍はというと?
あまり知っている人はいないのではないでしょうか。
でもこの4代目将軍「徳川家綱」こそが、知られざる名将軍だったりするのです。
4代目・家綱の英断
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武断政治から文治政治への転換
徳川家綱は11才で将軍に就任しますが、その直後から試練のような出来事が降りかかります。
それは「慶安の変(由比正雪の乱)」です。
これまでの厳しい幕政に不満が高まった浪人たちが、前将軍・徳川家光の死をきっかけに反乱を計画したのです。
反乱は未然に防がれ事なきを得ますが、家綱にとっては幕府へ不満を抱く者たちが多いという現実を突きつけられた事件でした。
ここで家綱がとった対応は、将軍家の権力で一層取り締まることではなく、反対に締め付けを弱めることです。
武家や浪人たちが生活に困らないような政治に方向転換しました。
(これを文治政治と言います)
ここで文治政治に転換せず取り締まりを強化していたら、反感はより一層高まり、平和が維持できなかったでしょう。
しかし文治政治のおかげで、藩政が安定する時期が続くこととなりました。
幼くても操り人形ではなかった・・器の大きさが分かるエピソード
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当時の家綱は幼かったので、もちろん側近たちの補佐は大きかったでしょう。
それでも
「家綱が人の立場を重んじる人だった」
とされるエピソードが多く残っていることから、文治政治への転換は家綱の本意であったと考えます。
「流刑人はご飯を食べてるの?」
家綱はある時流刑にあった罪人の話しを聞き、彼らの食糧事情を家臣に尋ねたそうです。
ところが誰も答えられませんでした。
そこで家綱は「命を助けて流刑にしたのだから、食糧を与えないことで死なせてはいけない。」
と、流刑人に食糧を与えることに決めました。
罪人だからと言って餓死しても良いとは考えない、人道的な考えの持ち主だったことが分かります。
おかわりの時のルール
またある時、汁物の中に髪の毛が混入しているのを見つけた家綱。
髪を取り除いて食べようとしましたが、家臣が許しませんでした。
代わりの汁を持ってこようとする家臣に、
「汁を捨ててからお代わりとして取りにいくように」
と言います。
髪が混入していたことで誰かが罰せられるのを防ぐためでした。
自分の行動が人にどう影響を与えるのか、よく知っていたのです。
まとめ
このように、家綱が状況をよく把握できるはっきりとした考えの人物だということが分かります。
この人物が政治の方向転換を決断できたことが、江戸幕府の存続に大きく貢献していると言えるでしょう。
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