「茶屋四郎次郎」とは、戦国から江戸時代の豪商「茶屋」を継いだものが代々名乗った呼び名です。
茶屋家は商人でありながら、戦国時代から江戸時代初期の徳川家を支えた重要な家系でした。
ところが「茶屋四郎次郎」と検索すると、
「家康に天ぷらを食べさせて死なせた人」
「家康の死期を早めた張本人」
という不名誉な情報ばかり。
ということでここでは、
茶屋四郎次郎の歴史的な功績
もお伝えしつつ、家康の死の真相に迫ります!
「家康の命の恩人」初代・茶屋四郎次郎
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茶屋家と徳川家康の縁の始まり
呉服屋である「茶屋」は、もともと武士だった中島明延が武士をやめて京都で開いたものです。
そして明延の子の清延が「初代・茶屋四郎次郎」を名乗り、徳川家康と関係するようになりました。
呉服屋でありながら、清延が家康の信頼を勝ち取ったのは本能寺の変がきっかけ。
本能寺の変をいち早く家康に伝えたのが、初代茶屋四郎次郎だったのです。
「本能寺の変」後、家康を無事に逃がす
本能寺の変のときに堺にいた家康。
明智光秀や落ち武者狩りの手を逃るため、僅か30数名の手勢で出来るだけ早く岡崎城(いまの愛知県)へ帰る必要がありました。
そのため選ばれた「伊賀を越える」という選択ですが・・
伊賀は当時、未開の地。
盗賊などがたくさんいる危険な地帯でした。
そこを安全に渡るために活躍したのが茶屋四郎次郎だったのです。
茶屋四郎次郎はその財力と交渉力で、野武士たちを懐柔していったといいます。
その甲斐あり、伊賀の道々で土地の者の支援を受けてなんとか岡崎城へ戻れた家康。
茶屋四郎次郎の力が無ければ、家康一行はその時殺されていたかもしれないと言われています。
後に死のきっかけを作ってしまったのかもしれませんが・・
家康が天寿を全うできたのはそもそも茶屋四郎次郎のおかげだったのですね。
家康の死因?天ぷらを食べさせた三代目・茶屋四郎次郎
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時代は過ぎて家康の晩年。
茶屋家は3代目が茶屋四郎次郎を継いでいました。
初代から徳川家との親密さが続いていた茶屋家は、その時家康に同行して鷹狩へ。
そして家康に楽しんでもらうための食事として提供したのが鯛の天ぷらでした。
その天ぷらは、「ごま油で揚げてニンニクで味付けしたもの」だったそう。
今聞いてもおいしそうですよね。
あまりにおいしかったため家康は食べすぎてその後寝込み、約三か月後に亡くなったのでした。
でも家康はその時75才です。
どちらかと言えば、現代でも長生きのほうですよね。
実はその前から胃癌を患っていたという説があり、
「茶屋四郎次郎が鯛の天ぷらを食べさせたから亡くなった」
というのは、少し言い過ぎかもしれません。
(というか、胃癌なのに鷹狩り、天ぷらおかわりなんて!?家康タフです)
ちなみに茶屋家のその後は?
海外との貿易でも富を得ていましたが、鎖国が始まると徐々に衰退してしまったと言います。
それでも現代にも、茶屋四郎次郎の末裔を名乗る方もいるようです。
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