島国の日本は、戦国時代になるまで朝鮮や中国以外の外国と直接関わったことはありませんでした。

そこで素朴な疑問としてあがるのが、「ヨーロッパの言語を話す外国人と、どのように会話をしたのか」ということ

英語やオランダ語、フランス語など・・

江戸時代以前の日本人は、どのようにしてこれらの言語を話す外国人と意思疎通を図っていたかを、調べてみました。

朝鮮語・中国語を介して学んだヨーロッパの言語

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島国の日本でも、朝鮮とは古くから交流があり、互いの言語を理解する人材が多くいました。

その後、朝鮮語を使って日本人がまず学んだのが、朝鮮の隣国の中国の言葉です。

ヨーロッパの言語の習得に欠かせないものが、この「中国語の理解」でした。

中国は貿易を通してヨーロッパの諸国とやりとりがあり、中国人の中でヨーロッパの言語を理解する人たちがいたからです。

それはヨーロッパ人も同じで、日本語は理解出来なくても中国語を理解する人物が必ずいました。

このようにして朝鮮語や中国語を介することで、日本人もヨーロッパの国の言語を覚えることが出来たのですね。

その結果、江戸時代鎖国下でも、オランダ語やポルトガル語の通訳(当時は通詞(つうし)という)を長崎の出島に置くことが出来ました。

また7代将軍のころ「イタリア人の宣教師シドッチ」が日本に潜入し捕らえられたのですが、その時もきっと出島の通詞や、中国語・漢文が使われたのでしょう。

(シドッチに関する記事は作成中です!)

初めての英語辞書は「諳厄利亜語林大成」

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今では世界の公用語となっている英語も、日本で登場したのは他のヨーロッパの言語より遅く、1800年以降のことでした。

1808年にイギリスの戦艦が日本の港に侵入し、食糧などを強奪した「フェートン号事件」がきっかけです。

幕府はこの事件を脅威に感じ、すぐに英和辞典の作成に取り掛かりました。

完成したものが「諳厄利亜語林大成」です。

「諳厄利亜語」は「アンゲリア語」と読みます。

イギリスに駐在歴のあるオランダ人の監修のもとにつくられ、全6000語がカタカナで発音表記されています。

近代の言語学者「金田一京助」氏のアイヌ語研究もすごい!

江戸時代以前の日本人の努力のおかげで、明治時代には外国語が堪能な日本人が多くなったといいます。

でも近代に入るまで、一番身近な外国語「アイヌ語」の研究は進められていませんでした。

明治時代に、そんな「アイヌ」の言葉を研究したのが有名な言語学者の「金田一京助」です。

横溝正史の小説やマンガ「金田一少年の事件簿」でおなじみの、あの「金田一」ですね!

(主人公の「金田一」の名前は、実際に金田一京助氏に由来しているそうです。)

金田一氏は、「何一つわからない」アイヌ語をどうにかして研究するために、

「これは何?」

というアイヌ語をまず解明したそうです。

「これは何?」さえわかれば、いろいろ聞けますもんね。

でも、全く言語が分からないので「これは何ってどうやって言うの?」すら聞けません。

そこで金田一氏のとった方法は、「めちゃくちゃにいろんなことを書いた紙をアイヌ人に見せる」ことでした。

その紙を見てアイヌ人が「これは何?」と言うと考えたんですね。

さすが名探偵のモデルとなった人物!

こうして金田一氏は、苦労しながらもアイヌ語研究の第一人者として後世に名前を残します。

そのご子孫の方々も言語学の方向に進み、私たちが日常使っている国語辞典にもお名前が載っているほどです!

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