明治維新によって日本の近代化を推し進めた立役者と言えば「薩摩藩」です。

しかしなぜ、九州の南端に追いやられていた外様大名が他藩を圧倒するような働きが出来たのでしょうか?

そこには、関ヶ原の戦い以後260年にも及ぶ長い時間に、しっかりと力を蓄えていたという薩摩藩の背景があったのです。

ここでは薩摩藩の強さの秘密を「武力・近代化・人材」の三つの観点から分析します!

薩摩藩が「武力」を維持し続けることが出来た秘密

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薩摩藩は幕末、圧倒的な武力を見せつけて幕府の威光に陰を落としました。

朝廷や幕府へ物言いが出来たのも「武力」があってこそ。

でも江戸時代、幕府は各藩が軍事力を持たないよう「武家諸法度」を制定して対策をとっていたはず。

そんな中、どのようにして薩摩藩は他藩をしのぐ武力を維持したのでしょうか?

ここには薩摩藩独自の「外城制度(とじょうせいど)」という統治法が関わってきます。

薩摩藩は領土をいくつかの「外城」という区域に分けて統治しました。

各外城には「城」が築かれ、武装集団が治安を維持しました。

各外城はネットワークで結ばれていましたから、

薩摩藩内には強固な軍事ネットワークが張り巡らされていた

ということになります。

後に一国一城制により城自体は無くなったものの、これらの武力は維持され、幕末で活かされることになったのです。

他藩をしのぐ「近代化」の秘密

また薩摩藩は、新たな知識の習得や産業の近代化にも力を入れていました。

8代目藩主の島津重豪は、徹底した開明政策をとって、医学・天文学・蘭学などの多方面の学問を奨励します。

また11代目の斉彬は、反射炉や溶鉱炉、洋式紡績所、ガラス製造所などの工場を設立して(集成館)近代的な産業の育成を試みたり、洋式軍艦も製造して海軍を設立しました。

これらの活動は財政を圧迫したものの、藩の強さを後押しするものになりました。

そして藩主たちがこうした開明的な動きを率先してとったことにより、広い視野を持つ先進的な人材が育ちやすい土壌をつくることにも貢献しました。

「人材」が豊富な秘密

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先にも書いたように藩主たちの開明政策のおかげで人材に恵まれた薩摩藩。

それが維持できたのは単純に

「脱藩を阻止できた」

からです。

大老井伊直弼により安政の大獄が始まると、尊王攘夷の機運が全国に高まります。

そしてそれに応じて、諸藩から血気だった志士たちが脱藩を始めました。

藩に留まっていては、思うような活動が許されないからです。

脱藩は藩にとって人材の流出。

ところが薩摩藩は、いち早く藩としての尊王の意志を藩内に示し「時節が到来すれば朝廷のために忠勤を尽くす」と宣言しました。

これにより優秀な人材の流出を防ぎ、挙国一致して幕末に臨むことが出来たのです。

まとめ

武力、近代化、人材・・

どの点をとっても、薩摩藩が明治維新の中心に立つことが出来たのは必然、ということが改めて実感させられます。

江戸時代の間、幕府に従属するのではなく、あくまで独立の心を持っていたのが他藩との大きな違いのようです。

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