「新井白石」は江戸幕府で6代将軍家宣と7代将軍家継に仕え、「正徳の治」と呼ばれる政治を行った中心人物です。
でも悲しいことに、後世では政治面であまり評価されていません。
それよりも大きな功績は、幕府の要職にありながら禁を侵し、イタリア人宣教師シドッチから多くの知識を得たこと。
この記事では新井白石の略歴と、イタリア人宣教師シドッチとの対話についてお伝えします。
ワンマン政治家「新井白石」の政治面の功績
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新井白石は先にも書いた通り、6代・7代将軍の治世で政治の中心を担った人物です。
5代綱吉の政治を批判し、新しい制度を数々打ち立てましたが、実はそれらの多くが失敗に終わっています。
8代将軍・徳川吉宗によって、5代綱吉のころの形に戻されたりしています。
唯一政治的な功績と思われるのは、「閑院宮家(かんいんのみやけ)の創設」です。
当時、天皇の皇位を継承しない親王は全員出家していたのですが、それでは天皇に男子が産まれない場合、皇統が途絶えてしまいます。
その万が一に備えて、徳川御三家(※)に当たる立場の宮家を作りました。
(※いざという時に将軍家へ跡継ぎを出すことが出来る家柄。詳細は以下の記事を参照ください↓)
「徳川「御三家と御三卿」の違い!役割やその特権について分かりやすく解説!」
それが「閑院宮家」で、後にこの宮家の存在が、天皇の血筋が途絶えることを防ぎました。
しかしとにかく新井白石は自負心が強く、他の幕臣たちからも嫌われていたようです。
8代将軍吉宗が即位すると白石は幕府の要職から追われただけでなく、白石の作成した書類や文書が焼き払われるという目にもあっています。
そんな白石だったからこそ実現できたシドッチとの対話
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そのワンマンぶりが嫌われた白石ですが、ワンマンだからこそ成し遂げられた功績があります。
それが「イタリア人宣教師シドッチ」と対話し、それを書物に記したことです。
江戸時代、1613年に伴天連追放令が出され、キリスト教は完全に禁教となり、宣教師や修道士は国外で追放されます。
そんな状況の日本に潜入しようとしたのが、イタリア人宣教師のシドッチです。
シドッチは日本人に化けるために月代をそりますが、言葉が通じずにすぐに捕らえられます。
本来なら即刻処刑されるべきところを救ったのが、新井白石でした。
シドッチは白石の口利きでキリシタン屋敷に軟禁されます。
(キリシタン屋敷とは、キリスト教を取り締まった際にキリスト教徒を収容した屋敷のこと。当時は既に使用されていなかった。)
そこで白石は、シドッチから当時の世界情勢を聞き、書物にしたためました。
それらの書物は「西洋紀聞」や「采覧異言」などと呼ばれています。
しかしシドッチは間もなく、キリシタン屋敷の管理人をキリスト教に改宗させた罪で投獄され牢の中で亡くなります。
白石の記した著書も禁書とされ、長らく出回ることはありませんでした。
しかし何時しか世に流通するようになり、幕末には鎖国のために知ることが出来なかった世界を知るための書物として、大変重要な役目を果たしました。
これこそが、新井白石が後世に遺した最も大きな功績と言えます。
さて、2014年、キリシタン屋敷跡で遺骨が発掘されるという発見がありました。
DNA鑑定ではその遺骨がイタリア人であることが分かっており、シドッチのものとみられています。
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