「杉田玄白(1733~1817年)」は江戸時代中期(10代将軍徳川家治から11代家斉)の時代に活躍した蘭学医です。
西洋の医学書を翻訳し「解体新書」を刊行しました。
この記事では、玄白の「解体新書」翻訳にまつわる教科書で教わらなかった事実と、
杉田玄白の回想をまとめた「蘭学事始」についてまとめてみました。
学校で教わらなかった「解体新書」
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「ターヘル・アナトミア」は本当はドイツの医学書
歴史の授業では「解体新書」はオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳したものとして教わりました。
でも実は、「ターヘル・アナトミア」はオランダの医学書では無かったうえに、書物名も誤っています。
正しくは「オントレートクンディヘ・ターフェレン」
もともとはドイツ語の医学書をオランダ語に訳したものだったそうです。
ちなみにドイツ語のタイトルは「アナトーミッシュ・ターベレン」だったとか。
でも当時の杉田玄白も、自分が訳している本がもともとドイツ語で作成されたものだとは知らなかったようです。
「ターヘル・アナトミア」とはオランダで呼ばれていた俗称だと考えられていて、杉田玄白らもそれに倣ったと言われています。
誤訳の多かったオリジナル版
また杉田玄白らは1774年に「解体新書」を刊行しますが、当然ながら誤訳が多かったそうです。
それについては杉田玄白自身も気に病んでいて、後に弟子の手によって訂正版が刊行(1826年)されました。
「蘭学事始」で伝えたかった仲間の苦労
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杉田玄白は「蘭学草創期の史実が後世に誤って伝わることを懸念して」回想録を書き始めます。
それが「蘭学事始」です。
当時は「蘭東事始」とされていました。
玄白が「後世に誤って伝わる」と心配したこととは何だったのでしょうか?
それは、「一緒に解体新書を翻訳した仲間の苦労が語り継がれなくなること」でした。
例えば、杉田玄白と共に解体新書作成に携わったとされる前野良沢。
現在では杉田玄白と共に「前野良沢」が解体新書作成に携わっていたことが伝えられていますが、当時はだれにも知られていませんでした。
「解体新書」の作成者として紹介されることを、前野良沢自身が固辞したからです。
しかし「蘭学事始」で前野良沢が紹介されたことによって、解体新書翻訳に前野良沢が携わったという事実を後世に伝えることが出来ました。
他にも、杉田玄白とともにオランダ語を学んでいた当時の仲間とのエピソードがたくさん紹介されています。
杉田玄白はこの蘭学事始(当時は蘭東事始)の完成(1815年)を見届けて、2年後に85才で亡くなりました。
「蘭学事始」を世に出したのは福沢諭吉
杉田玄白の死後、蘭学事始(当時は蘭東事始)は長い間刊行されませんでした。
原本と、作成された写本二冊も、いつしか見失われてしまっていたのだそうです。
それをタイトルを「蘭学事始」に変えて世に出したのは、福沢諭吉です。
なんと幕末に、露店で売られていたものを偶然見つけたのだとか!
(ただし見つけたのは福沢諭吉ではない)
こうして奇跡的に、前野良沢ら蘭学者の苦労を後世に伝えることが出来たのです。
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