「公議政体論」とは、「雄藩で構成された議会を設置し、その議会で政治を進めよう」という考え方です。
主に土佐藩が主張していました。
ここでは「公議政体論」をより理解するために、
「公議政体論」派と「討幕」派の対立
公議政体論派によって実現した大政奉還までの流れ
について説明します!
対立した二つの派閥「公議政体論派」と「倒幕派」
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幕末、鎖国政策を解消した日本は、外国からの脅威に打ち勝つために近代化を進める必要がありました。
そこで国内で生じたのが、「公議政体論」派と「倒幕」派の対立です。
両者はともに「どのように日本を近代化するか」を論じているのですが、
公議政体論派は、あくまで江戸幕府による幕藩体制は崩さずに近代化を図ろうとする考えの派閥でした。
冒頭に書いたように土佐藩や、他にも越前福井藩・尾張藩が主張していた考え方です。
対して討幕派は、薩摩藩や長州藩が挙げられます。
「幕府にはもはや外国に打ち勝つ力がない」として、江戸幕府を倒して天皇中心の政治体系をつくり、近代化を図ろうと考えました。
初め両派は拮抗していましたが、「公武合体(天皇と将軍が力を合わせて政治をおこなう」」を主張した孝明天皇が崩御すると、拮抗は崩れ始めます。
討幕派の公家・岩倉具視と薩長が主導権を握り、幕府を倒すための動きが現実のものとなってきました。
討幕派の台頭は幕府の存続だけでなく、公議政体論派の藩にとっては自藩の危機でもあります。
討幕派に主導権を握られたままでは、近代化後の自藩の立場も危うくなるからです。
公議政体論派が巻き返しを図った「大政奉還」
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討幕派の優位に危機感を覚えた土佐藩は、土佐藩士・後藤象二郎と土佐藩浪人・坂本竜馬による「船中八策」案を採用します。
これは以下の通りの内容で、日本の近代化を進めるよう主張するものでした。
1.政権を天皇へ返すこと
2.議会を設置し、ここで議論して政治を行うこと
3.自由に有能な人材を登用すること
4.外交問題は議会で決定すること
5.憲法を制定すること
6.海軍を整備すること
7.天皇の直轄軍をつくること
8.外国との貨幣の交換比率を確立すること
坂本竜馬は旗本の勝海舟などから得た知識を、上記の八策に盛り込みました。
土佐藩主の山内豊範は上記の内容を改定し「議会の議長を徳川将軍に」として徳川慶喜に提出します。
こうして作成された「大政奉還の詔」は1867年10月14日に天皇に受け入れられました。
一方討幕派は、奇しくも同日10月14日に天皇から「倒幕」の密勅を受けます。
しかし大政奉還によって先手を打たれ、実行にうつすことは出来ません。
公議政体論派が主導権を握ったかのように思われました。
討幕派によるクーデター「王政復古の大号令」
このままでは引き続き議会の中心を徳川家に握られる・・
と困った討幕派は、クーデターによって江戸幕府を廃絶する動きに出ます。
「王政復古の大号令(1867年12月8日)」です。
薩摩、長州、芸州、尾張、越前などの申し合わせてあった藩と討幕派の公卿のみが参内し、明治天皇の臨席でなされました。
「王政=天皇を中心とした議会」の確立を宣言するこの大号令により、徳川家は幕府中心の議会を実現することが出来なくなります。
またこの大号令に続き、徳川家を排除したままの会議(子御所会議)で徳川家の処遇が決められました。
そこで徳川家は将軍職や官位ははく奪され、将軍家の土地も没収されることになりました。
こうして「公議政体論」派は敗れついに倒幕が実現。
その後討幕派は残った幕府勢力を徹底的につぶすべく、動き始めることになります。
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