徳川慶喜は江戸幕府15代将軍であり、歴史上最後の征夷大将軍でもあります。
しかし水戸藩出身の慶喜は、本来将軍職になる可能性のない人物でした。
それがなぜ、将軍になることになったのでしょうか。
また、「大政奉還」を決断した経緯は?
慶喜が将軍になり大政奉還に至るまでの流れを、分かりやすくお伝えします。
水戸藩主の7男だった慶喜が、将軍職継承権を得る
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江戸幕府の将軍は代々、前将軍の長男が継承することになっています。
実子がいなければ御三家のうちの尾張・紀州や、御三卿(田安家、一橋家、清水家)から養子を得るというルールです。
(御三家、御三卿についてはこちら→「徳川「御三家と御三卿」の違いは?役割やその特権について分かりやすく解説」)
ところが慶喜は、御三家ではあるものの将軍宗家へ養子を出すことが出来ない「水戸藩」出身。
それも水戸藩主徳川斉昭の「7男」でした。
どう転んでも、将軍どころか水戸藩主にもなかなかなれない立場です。
それを可能にしたのは、慶喜自身の人柄によるかもしれません。
慶喜は12代将軍徳川家慶に気に入られ、御三卿の一橋家へ養子に入ることになったのです。
御三卿は将軍に実子がいない場合、養子として宗家に入り将軍になることが許される家柄です。
慶喜はシンデレラボーイのように、将来将軍に就く権利を得たのです。
一度は逃した将軍の座「井伊直弼」に敗北
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といっても「将軍になる権利を得た」だけで、慶喜が将軍になることが保障された訳ではありません。
12代将軍家慶の後を継いで13代将軍となった徳川家定は、就任直後から一橋派(慶喜を支持する派閥)にないがしろにされてきた恨みで、「慶喜が将軍になることだけは許せない」と思っていました。
慶喜の父の徳川斉昭は、政治力を使い家定の声を封じ込めて来ましたが・・
大老「井伊直弼」の出現で形勢が逆転します。
井伊直弼を後ろ盾につけた家定は「時期将軍を家茂にする」と宣言し、一橋派の処罰を断行します。
これが安政の大獄です。
安政の大獄により、一橋派の中心人物だった斉昭だけでなく慶喜自身も謹慎することになりました。
幕府の弱体化と一橋派の復活
ところが将軍家茂の時代、幕府の弱体化はますます進んでいきました。
皇女和宮の降嫁とともに朝廷の後ろ盾を得ようとした幕府の思惑は、「鎖国・攘夷」の約束を反故にしたことで裏目に出ます。
そんな中で権力を持ち始めたのは、いままで幕府によって押さえつけられてきた「雄藩」でした。
その中の一つ薩摩藩は、治安の悪くなった京都の警備を天皇から命じられます。
それにより薩摩藩は発言力を増し、安政の大獄で処罰されていた一橋派の放免にも働きかけました。
対立していた井伊直弼は桜田門外の変により既にこの世になく、一橋派は再び幕府内での権力をもちなおします。
一橋慶喜も家茂の後見人となりました。
家茂の死・・慶喜が最後の将軍に
第二次長州征伐の最中、家茂は21才の若さで亡くなります。
この時家茂は、次期将軍にと御三卿「田安家」の当主「家達(いえさと)」を指名します。
ところが家達はこのときまだ4才だったため、この多難な政局での将軍就任に「待った」がかかりました。
代わりに将軍へと推されたのが、一橋慶喜でした。
「大政奉還」を行うも、討幕派のクーデターに敗れる
ところが慶喜が将軍になるとすぐ、幕府と朝廷の「公武合体」を支持していた孝明天皇が崩御します。
そして朝廷内には、幕府を倒して新政権を樹立しようとする「討幕派」が台頭し始めました。
窮地に立たされた慶喜は、武力で政権を奪われる前に、自ら政権を天皇へ返上する「大政奉還」を行います。
こうすることで徳川家の政治的主導権を維持し、フランス式の政治体制を樹立しようとしたのでした。
ところが討幕派が起こしたクーデター「王政復古の大号令」や辞官納地(徳川家の領地や官位を朝廷へ返還すること)で形成は逆転。
政治力を奪われます。
その後、鳥羽・伏見の戦いで軍事的にも完敗し、徳川家は権力を失うことになりました。
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