「江戸時代は武士の時代」かのようなイメージがありますが、実は人口の80パーセントを占めていたのは農民でした。
また武士の生活を成り立たせていたのは、農民が納めた「コメ」。
そのため「江戸時代の日本は農民によって支えられていた」と言っても過言では無いでしょう。
ここでは、そんな江戸時代の農民にスポットライトをあて、その暮らしぶりや年貢の制度、百姓一揆の実態などについてお伝えします!
武士にしばられていた農民の暮らし
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「コメ=金」だった江戸時代。
武士の生活を支えていたのは農民たちに年貢として納めさせていたコメでした。
年貢がきちんと納められなければ自分たちの生活が困ってしまうので、武士は農民の暮らしを厳しく取り締まりました。
「五人組」「村方三役」などの決まりによって厳しく取り立てられた年貢
年貢は村ごとに納められていましたが、村人たちがそれぞれ納めなければいけない年貢の量は「村方三役」と呼ばれた役人によって決められていました。
「村方三役」とは、
庄屋(または名主)・・村長
組頭・・村長の補佐役
百姓代・・百姓の代表
を指します。
また三役が決めた年貢が確実に納められるよう、百姓たちは「五人組」と呼ばれる組織を作らされました。
五人組は一蓮托生で、年貢が納められないものや罪を犯したものがいると連帯責任をとらされます。
農民たちが互いに怠けることを許さない、厳しいものでした。
農業技術の発展によって効率的になった農作業
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このように、江戸時代は農民にとって厳しい取り締まりの時代でしたが、厳しいばかりではありませんでした。
農業の技術が発達したことにより、農作業がそれまでよりも楽になったのです。
江戸時代に発明されたものは、
備中ぐわ(土を深く耕すのに便利なくわ)
千歯こき(大量に早く稲を脱穀する道具)
などがありました。
特に千歯こきは、農作業の負担を大きく改善したことで有名です。
それまでアルバイトを雇ってまでこなしていた脱穀という作業が、人を雇う必要が無くなったほど。
(ちなみに、脱穀をアルバイトとしていたのは、ほとんどが夫を失った「後家」だったそう。千歯こきのせいで後家たちは仕事を失ったので、千歯こきは「後家倒し」とも呼ばれています。)
それでも年貢を納められなくなったら・・百姓一揆
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農業技術が飛躍的にアップしたとはいえ、やはり年貢の負担は百姓にとって重いものでした。
農民の中には、年貢を納めるために娘を売るものもいたと言います。
そしてそれでも生きていけなくなったとき、農民たちは武器を持って領主に反抗する「百姓一揆」を起こしました。
江戸時代に起こった百姓一揆は、およそ3,000件とも言われています。
一揆の刑罰
江戸時代、農民たちは武士の政治を批判することや、政治的な集会を開くことさえ禁止されていました。
その時代に一揆を起こすことは一大事。
リーダーはもちろん、関係した多くの人々がはりつけ(死刑)などの思い罰を受けました。
江戸時代の主な百姓一揆
佐倉惣五郎の直訴
下総(千葉県)で起こった一揆。
佐倉藩主の取り立てがあまりに厳しいことを、惣五郎という農民が代表になって将軍へ直訴したもの。
訴えは受け入れられましたが、惣五郎をはじめ妻や子供までがはりつけにされました。
伝馬騒動
中山道ぞいの村にかけられていた「伝馬役」という制度(幕府へ馬を提供する役)を、広げようとして起こった一揆。
中山道の村々のおよそ20万人が参加しました。
幕府がこの新しい制度を中止したために、一揆は収まりました。