徳川家康が忍者を重用したことはよく知られていますが、実は思っていた以上に徳川家と忍者は縁が深い間柄だったかもしれません。

この記事では徳川家康と伊賀忍者の、あまり知られていないつながりについて調べてみました!

家康の寵愛を受けたあの側室は、忍者の娘だった!?

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徳川家康には正室と側室合わせて10人以上の妻がいましたが、その中でも特に寵愛を受け政治的にも信頼されていた側室がいました。

それが「お愛の方」(もしくは西郷局)です。

お愛の方は1578年に側室となり、2代目の江戸幕府将軍となる徳川秀忠を産んだ人物です。

お愛の方は奥向きを如才なく束ね、徳川家康からの信頼を厚く受けていました。

お愛の方の義父は伊賀忍者「服部平太夫」

そんなお愛の方ですが、もともとは母方の従兄の西郷家に嫁いでおり、夫とは死別していました。

その後母が服部平太夫正尚(はっとりへいだゆうまさなお)という人物と再婚し、一時服部姓になります。

徳川家康の元へ嫁いだのは、服部の家から伯父の西郷清員へ養女に入った後のことでした。

ここで気になるのが、お愛の方の義父の苗字の「服部」です。

実は義父の服部平太夫は、有名な伊賀忍者の服部一族の一員であったと言われています。

そして義娘が徳川家康の側室になった縁で、伊賀忍者たちは徳川家康の伊賀越えを助けることになったとも言われています。

伊賀越えの成功については「商人の茶屋四郎次郎の尽力のおかげ」というのが通説ですが、陰の功労者はお愛の方や服部平太夫だったかもしれません。

寵愛を受けるも短命で亡くなったお愛の方。息子は二代目将軍に

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上記の話しが本当なら、徳川家康の命運に大きく関わったとも言えるお愛の方。

ですが、病気のため28才という若さでこの世を去っています。

亡くなった年は1589年なので、お愛の方は我が子の秀忠が二代目の将軍になることを知ることは出来ませんでした。

服部平太夫の子孫は?

またお愛の方の義父で伊賀忍者とも考えられている服部平太夫の子孫は、江戸時代に入っても活躍していたようです。

8代目将軍・徳川吉宗の時代に、平太夫の子孫とみられる蓑笠之助(みの かさのすけ)という人物が登場します。

笠之介は、新田開発や治水工事で手腕を発揮したと、記録に残っています。

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