明治維新が起こり江戸幕府が討幕された時、大奥も最期の時を迎えました。
でも気になるのは、大奥で働いていた女中たちの行く末。
どのようにして明治期を生き抜いたのでしょうか?
明治維新後の大奥女中について調べてみました!
明治維新後、退職した奥女中の人数は?
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大奥を退職した女中を「御殿下り(ごてんさがり)」と呼びます。
明治期は、この「御殿下がり」の女性が多く生まれてしまった時期でした。
江戸城が開城される前、大奥には約500人ほどの女中がいたと言われています。
ところが徳川家の処分が決まっていくと、徐々に女中は暇に出されていきます。
そして最終的に徳川家に残った女中は28名。
472名の女性が明治維新をきっかけに御殿下りをして町に出ることになりました。
粋に映った「御殿下り」一方で世間とのズレも・・
御殿下りの女性は、町でみかけるとすぐに分かるほど品があり目を引いたようです。
明治期に作られた江戸の回顧録「幕末明治女百話」に、こんな一節があります。
御殿を退り、町方へ来ている女性は、どうしてもどこか品があって、お化粧がちがいました。・・
化粧も身だしなみも大奥仕込みで、他の町人とは一線を画していたようです。
一方で、大奥での暮らしに慣れていたため、一般人との生活習慣の違いが問題にもなっていたよう。
「品が良い」と評判のお化粧も、白粉や紅を使う量が大量だったり、水もたくさん使うなどが原因で、家族からは陰口を叩かれたようです。
御殿下りをすると実家へ帰るのが普通でしたが、このようなことが原因で実家でも折り合いが悪く、また婚期を過ぎてから御殿下りした女中は縁談もありません。
一人で身をたてていくしか無い元女中も、多かったのです。
一人で生きていくための、御殿下りの身の立て方
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家族と暮らせなくなった御殿下りは、別に家を持って一人で生計を立て始めました。
一般常識については問題があっても、上流の世界で暮らしていたので、お茶やお花の腕前は一流。
そのためたくさんの弟子を持ったり、嫁入り前の修行に習いにくる女性も多かったようです。
御殿下りの女性たちも、このように社会進出をして明治期をたくましく生き抜いたんですね。