江戸時代後期から幕末にかけて、江戸城は数度も炎上するという災難に見舞われました。

しかし幕府の将軍の居城である江戸城がなぜ、そんなにも火事に見舞われることになったのでしょうか?

その理由は驚くべきことに、放火でした

この事実は、江戸幕府の権威が著しく失墜していたことを示しています。

幕末に相次ぐ江戸城の炎上。30年の間になんと5回も

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江戸城の炎上といえば江戸時代初期の1657年に起こった明暦の大火が有名です。

この火事は江戸の町の何か所かから出火し、江戸城の天守閣まで消失してしまったほどの大火事でした。

ところがこれ以外にも、江戸城は何度か炎上しています。

そしてそれらの火事は、江戸時代の後期から幕末にかけての約30年間に集中しているのです。

1838年の西丸炎上

この火事は天保9年(1858年)の3月10日に出火し、西丸が残らず消失しました。

ちなみに西丸とは将軍の世子の居城です。

この火事が沈下したのは翌日の昼近く。

火事の再建費用としては、五万石以上の大名や旗本などへ上納金を命じたほか、江戸の町人からも上納金を募り金126万両以上を集めました。

金一両の値段は一概には言えませんが、少なくとも現在の10万円はすると考えると、この時集まったお金は1260万円以上ということになります。

1844年の本丸炎上

西丸炎上からわずか6年後の弘化元年(1844年)、大奥から出火した火事は江戸城本丸の奥・表殿中向き全てを消失しました。

この時再建のために集められた金額は調べることは出来ませんでしたが、天保9年の火事と違い石高の高い・低いに関わらず全ての大名に上納金が課せられました。

1852年の西丸炎上

再び西丸から出火した火事はまたも殿中を残らず消失させました。

西丸に住んでいた当時の将軍の家慶の子・家定は一時家慶のいる本丸へ移り住むことを余儀なくされました。

家定が西丸に再び戻ることが出来たのは、火事からおよそ七カ月後のことでした。

1859年の本丸炎上

西丸炎上からたったの7年後、今度は再び本丸が炎上しました。

奥・表ともに消失し、当時住んでいた天璋院(篤姫)らも西丸へ避難しました。

1863年の本丸・西丸炎上

さらには前回の火事からたったの4年後、今度は西丸と本丸の両方から出荷するという災難に見舞われました。

この火事では当時の将軍の家茂や御台所の和宮、天璋院らも清水御屋形へ避難するという大惨事でした。

原因は「放火」幕府の統率力失墜を見せつける

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このようにたった30年ほどの間に5回も起こった火事は、放火であったと考えられています。

日本の政治中枢である将軍の居城を炎上させるという事態は、江戸幕府の統率力がいかに失われていたかを示しています。

この事態が暗示するように、最後の火事からおよそ5年後に江戸幕府は崩れることになるのです。