女の園「大奥」の女性たちの楽しみは、何と言っても「着物」

女中たちは給料の一部に「着物代」が含まれたのですが、その値段は現代の価値観では破格のものでした!

この記事では、そんな大奥女中の着物にかけられる金額の他、大奥女中の着物に関する雑学をお伝えします。

大奥女中に与えられた着物代「合力金」

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大奥の女中たちは役職によって年棒が決められていましたが、その他にある名目として与えられた給金がありました。

それが「合力金」

着物を買うための衣装代です。

この合力金は大奥女中トップの上臈御年寄から最下層の御半下まで、金額は違えど漏れなく支給されました。

上臈御年寄の着物代は600万円!

大奥女中のうち、最もたくさんの合力金をもらっていたのは、上臈御年寄と御年寄という役職の女中です。

その金額は60両。

現在の価値に換算すると、なんと600万円にもなります。

ちなみに年棒の切米は50石で、一石を一両と考えると切米だけでも500万円分。

大奥女中トップたちは年棒と衣装代で一千万円以上もらっていたのです。

最下層の御半下でも、20万円

一方、大奥女中の最下層である御半下とよばれる役職の女中たちはどうだったのでしょうか?

水汲みなどの雑用を担った御半下の女中たちの合力金は、年間2両。

つまり20万円ほどになります。

上臈御年寄らと比べると大きな差はありますが、現代の女性で考えると一か月一万円以上使えるのはそれほど悪くはないかもしれません。

ちなみに年棒の切米は4石。

40万円ほどということで、衣食住に困らないとは言えたくさん給金をもらっているとは言えませんでした。

大奥女中たちはどうやって着物を手に入れたのか?

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このように大奥女中たちが着物に使うお金がたくさんあったことは分かりましたが、彼女たちはどのようにして着物を手に入れていたのでしょうか?

外出が自由に許されていなかった女中たちは、江戸城御用達の呉服商人たちに大奥まで商品を届けさせていたのです。

日本橋に集められた「江戸城御用達」の呉服商たち

徳川家康は江戸に幕府を開いた時、江戸城の近辺を埋め立てて「日本橋」と呼ばれる市街地を作りました。

この日本橋地域には江戸城に物資を補給する商人たちが集められ、彼らは「御用達商人」と呼ばれました。

御用達商人は、大奥へももちろん物資を補給します。

その補給物のナンバー1に挙げられたのが着物でした。

着物を補給したのは、三井家の「越後屋」、下村家の「大丸屋」など。

着物を売る呉服業はこの江戸時代に隆盛を極めましたが、江戸幕府の終焉とともに彼らの経営も厳しくなっていきます。

着物の他に、女中たちに大人気だったのは・・

最後に、大奥へ補給される物資として着物についで需要が高かったものが

「お菓子」

です。

普段からお菓子を所望する女中たちはたくさんいたのですが、なにかイベントがある時の注文量は破壊的なほど。

御台所が将軍菩提寺に参詣するときなどは、御供の女中たちに振舞うためになんと「4万から5万個」の饅頭を注文したと言います。

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