江戸吉原の高級遊女の中で、特に優れた遊女だけが名乗ることを許された名跡「高尾太夫(たかおだゆう)」。
代々の「高尾太夫」には、最高級遊女の名にふさわしい数々の伝説が残されています。
この記事では、そんな「代々の高尾太夫」にまつわる伝説的なエピソードをまとめてみました!
高尾太夫とは
江戸吉原の「三浦屋」に伝わる名跡の一つ
先にも書いた通り、「高尾太夫」とは江戸吉原の三浦屋に代々伝わる名跡のひとつです。
三浦屋には同じように「吉野太夫」「薄墨太夫」などの名跡もありましたが、「高尾太夫」はそれらの中でも最高級のもの。
美貌と教養を兼ね備えた、選ばれた遊女しか名乗ることが許されませんでした。
高尾太夫は何代続いた?
そんな高尾太夫は、歴代何人いたのでしょうか?
実は明確に「何人いた」という記録は残されていません。
三浦屋が襲名の際に「何代目」と明言しなかったからだと言います。
多くの研究者がその人数を調べていますが、6~11人と定かではありません。
代々「高尾太夫」の伝説的エピソード
伊達騒動の原因になった?二代目高尾
高尾太夫にまつわる伝説で最もセンセーショナルなものが、二代目高尾にまつわるもの。
二代目高尾太夫は見た目の美貌に加えて、和歌や俳句もたしなむ才色兼備だったようです。
そのため彼女につく客は身分の高い人物が多く、その中に「独眼竜」で有名な伊達政宗の直系の孫「伊達綱宗」がいました。
高尾に入れ込んだ綱宗は一刻も早く高尾を自分のものにしようと、身請けをします。
嫉妬のあまり高尾を吊るし切りにした綱宗。綱宗は幕府の命令で隠居へ
ところが、高尾には恋人がいて、その存在を知り怒った綱宗は高尾を吊るし切りにして殺してしまったのです。
そしてその結果、綱宗は21才の若さで幕府から隠居を命じられ、伊達家は綱宗の2才の長男・綱村が継ぐことに。
こうして綱村の後見人の座を巡って、「伊達騒動」が起こりました。
・・ただしあくまでもこれは「伝説」のお話し。
綱宗がその振る舞いが原因で隠居させられ、伊達騒動が起こったことは本当ですが、
そこに高尾がからんでいたのか?
からんでいたとして、高尾は本当に吊るし切りにされたのか?
は、定かではありません。
落語になった五代目高尾
次いで有名な高尾にまつわる伝説は、落語「紺屋高尾」になった五代目高尾です。
五代目高尾の花魁道中を見て一目ぼれをした染物職人の久蔵の熱意にほだされ、年季が明けたあと久蔵のもとに嫁いだというお話し。
先ほどの二代目高尾の伝説とは異なり、心の温まる幸せなエピソードです。
「高尾」の名跡を途絶えさせた十一代目高尾
高尾の名跡が何代続いたかには様々な説がありますが、十一代続いたとする説で伝説的なものがあります。
その説によると、高尾は十一代続き、1741年にその十一代目が落籍されます。
ところがこの十一代目が廓を出るときに、門に「盛塩」をするなど失礼な行いをしたため、襲名が途絶えたのです。
☆☆☆
その他にも、
引退後に尼になった初代高尾
落籍後も様々な男性を虜にした三代目高尾
など、「高尾太夫」の名を受け継いだ遊女は個性的な人生を歩んだ女性が多いようです。